兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。
『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の185段~188段が、このページによって解説されています。
参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)
[古文]
第185段:城陸奥守泰盛(やすもり)は、双なき馬乗りなりけり。馬を引き出させけるに、足を揃へて閾(しきみ)をゆらりと超ゆるを見ては、「これは勇める馬なり」とて、鞍を置き換へさせけり。また、足を伸べて閾に蹴当てぬれば、「これは鈍くして、過ちあるべし」とて、乗らざりけり。
道を知らざらん人、かばかり恐れなんや。
[現代語訳]
陸奥守泰盛(安達城介義景)は、比類のない馬乗りだった。厩から馬を引き出させる時に、足を揃えて敷居ををゆらりと超える馬を見て、『これは勇み馬だ』と言って、鞍を置き換えさせた。次の馬が足を伸ばして敷居にひずめを蹴り当てるのを見て、『この馬は鈍くて、怪我するかもしれない』と言って乗らなかった。乗馬の道に精通していない人は、こんなにも恐れないだろう。
[古文]
第186段:吉田と申す馬乗りの申し侍りしは、「馬毎にこはきものなり。人の力争ふべからずと知るべし。乗るべき馬をば、先づよく見て、強き所、弱き所を知るべし。次に、轡(くつわ)・鞍の具に危き事やあると見て、心に懸る事あらば、その馬を馳すべからず。この用意を忘れざるを馬乗りとは申すなり。これ、秘蔵(ひぞう)の事なり」と申しき。
[現代語訳]
吉田という馬乗りが申し上げることには、『馬はどの馬も手強くて、人の力など馬に敵うはずもないと知るべきだろう。乗る馬をまずはよく見て、長所や短所を知らなければならない。次に、くつわや鞍などの馬具に危険はないかと見て、心にひっかかる事があるならば、馬を走らせるべきではない。この用意を忘れない者を真の馬乗りと言うのだ。これが、馬に乗る秘訣なのだ。』と言った。
[古文]
第187段:万の道の人、たとひ不堪(ふかん)なりといへども、堪能(かんのう)の非家(ひか)の人に並ぶ時、必ず勝る事は、弛みなく慎みて軽々しくせぬと、偏へ(ひとえ)に自由なるとの等しからぬなり。
芸能・所作のみにあらず、大方の振舞・心遣ひも、愚かにして慎めるは、得の本なり。巧みにして欲しきままなるは、失の本なり。
[現代語訳]
それぞれの道の専門家は、専門家の中では劣っていても、素人の中で上手な人と並んだ時には、必ず勝つようになっている。これは、専門家がこれこそが自分の生きる道(天職)であると思い、その技芸・知識を慎んで訓練して軽々しく扱わないことと、素人が自由気ままに練習して上達を目指すこととの違いである。
芸能や儀礼の所作だけではなくて、普段の振舞いや心づかいにしても、自分の未熟さを認めて慎むのであれば、熟達・成功の原因となる。技術が優れているからといって好き勝手にやるのは、失敗・失策の原因である。
[古文]
第188段:或者、子を法師になして、「学問して因果の理をも知り、説教などして世渡るたづきともせよ」と言ひければ、教のままに、説教師にならんために、先づ、馬に乗り習ひけり。輿・車は持たぬ身の、導師に請(しょう)ぜられん時、馬など迎へにおこせたらんに、桃尻にて落ちなんは、心憂かるべしと思ひけり。次に、仏事の後、酒など勧むる事あらんに、法師の無下に能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌といふことを習ひけり。二つのわざ、やうやう境に入りければ、いよいよよくしたく覚えて嗜みけるほどに、説教習うべき隙なくて、年寄りにけり。
この法師のみにもあらず、世間の人、なべて、この事あり。若きほどは、諸事につけて、身を立て、大きなる道をも成じ、能をも附き、学問をもせんと、行末久しくあらます事ども心には懸けながら、世を長閑に思ひて打ち怠りつつ、先づ、差し当りたる、目の前の事のみに紛れて、月日を送れば、事々成す事なくして、身は老いぬ。終に、物の上手にもならず、思ひしやうに身をも待たず、悔ゆれども取り返さるる齢ならねば、走りて坂を下る輪の如くに衰へ行く。
されば、一生の中、むねとあらまほしからん事の中に、いづれか勝るとよく思ひ比べて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし。一日の中、一時の中にも、数多の事の来らん中に、少しも益の勝らん事を営みて、その外をば打ち捨てて、大事を急ぐべきなり。何万をも捨てじと心に取り持ちては、一事も成るべからず。
例へば、碁を打つ人、一手も徒らにせず、人に先立ちて、小を捨て大に就くが如し。それにとりて、三つの石を捨てて、十の石に就くことは易し。十を捨てて、十一に就くことは難し。一つなりとも勝らん方へこそ就くべきを、十まで成りぬれば、惜しく覚えて、多く勝らぬ石には換へ難し。これをも捨てず、かれをも取らんと思ふ心に、かれをも得ず、これをも失ふべき道なり。
京に住む人、急ぎて東山に用ありて、既に行き着きたりとも、西山に行きてその益勝るべき事を思ひ得たらば、門より帰りて西山に行くべきなり。「此所まで来着きぬれば、この事をば先づ言ひてん。日を指さぬ事なれば、西山の事は帰りてまたこそ思ひ立ため」と思ふ故に、一時の懈怠(けたい)、即ち一生の懈怠となる。これを恐るべし。
一事を必ず成さんと思はば、他の事の破るるをも傷むべからず、人の嘲りをも恥づべからず。万事に換へずしては、一の大事成るべからず。人の数多ありける中にて、或者、「ますほの薄(すすき)、まそほの薄など言ふ事あり。渡辺の聖、この事を伝へ知りたり」と語りけるを、登蓮(とうれん)法師、その座に侍りけるが、聞きて、雨の降りけるに、「蓑・笠やある。貸し給へ。かの薄の事習ひに、渡辺の聖のがり尋ね罷らん」と言ひけるを、「余りに物騒がし。雨止みてこそ」と人の言ひければ、「無下の事をも仰せらるるものかな。人の命は雨の晴れ間をも待つものかは。我も死に、聖も失せなば、尋ね聞きてんや」とて、走り出でて行きつつ、習ひ侍りにけりと申し伝へたるこそ、ゆゆしく、有難う覚ゆれ。「敏き時は、即ち功あり」とぞ、論語と云ふ文にも侍るなる。この薄をいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁をぞ思ふべかりける。
[現代語訳]
ある者が、自分の子を法師にして言った。『仏の道を学んで物事の因果の理を知り、学んだ内容を説経でもして、世を渡るための支えとせよ』と。子は親の教えのままに、説経師になることに決め、最初に乗馬を習うことにした。大きな寺の僧侶のように牛車・輿に乗れる身分でもないので、法事の導師として招かれて馬などで迎えに来られた時に、桃尻で落馬したら恥ずかしい思いをすると心配になったからである。次に、法事の後で、酒など勧められた時に芸の一つも披露できないと、檀那がつまらなく思うだろうと思って早歌を習った。乗馬・早歌の二つがだんだんと熟練の域に達して、いよいよその道が面白くなってしまい懸命に練習しているうちに、本来の目的だった仏教の説経を習う暇(時間)もないままに年寄りになってしまった。
この法師だけではない、世間の人は誰でもこんなものだ。若いうちは何につけても、まずは身を立て、大いなる目的をも達成し、技芸を身につけて、学問を修めようと、長い将来をあれこれと計画しているものだ。だが、まだまだ人生は長いと思ってやるべきことを怠けていると、差し迫った目の前の仕事に紛れて月日を送り、何事も達成できないままに身は老いてしまう。
最後には、何の道にも精通せず、思い通りに出世することもできず、それを悔いたところで取り返しのつかない年齢になっており、ただ坂道を転がる車輪のように衰えていくだけである。
そうであれば、一生のうち、あれもこれもと望む事の中から、どれが勝るかをよく思い比べて第一の事を決定し、その他は思い切って捨てて、一つの事に励むのが良いのだ。一日のうち、僅かな時間の間にも数多くのやることがあるが、その中から少しでも自分に利益のある事を行い、その他のことを打ち捨てて、大切な大事こそ急ぐべきだ。やりたいこと全てを捨てまいとして心に持っていては、一つの大事も成し遂げることはできない。
例えば、碁の名人が一手も無駄にせず、相手に先立って小を捨て大につくようなものである。三つの石を捨てて十の石を取るのは簡単だ。だが、十の石を捨てて十一の石を取るのは難しい。一つでも多く石を得て勝つ手を取るべきだが、石が十個までなるとそれを失うのが惜しく思えて、多く石を取れる手には換えがたくなってしまう。これを捨てたくない、あれは取りたいと思う心では、あれも得られないし、これも失ってしまう最悪の手になってしまう。
京に住む人が東山に急用ができて、既に東山に行き着いていたとしても、西山に東山よりも勝る利益がある事に思い至ったならば、すぐに門から出て西山に急ぐべきなのだ。『ここまで来たんだから、まずこの用事を済まそう。日時の決まった事でもないんだから、西山の事は家に帰ってからまた考えよう』と思ってしまうがために、一時の懈怠(怠りと緩み)がそのまま一生の懈怠になってしまう。このことこそを、恐れるべきだ。
一つの事を必ず成そうと思うならば、他の事が失敗しても落ち込むのではなく、他人の嘲りを受けても恥じてはいけない。全ての事柄と引き換えにしなければ、一番の大事が成るはずなどない。
大勢の人がいる中である人がこう言った。『ますほのススキ、まそほのススキなどと言うことがある。渡辺の聖は、このススキについて何か知っているということだ』と。その場にいた登蓮法師はそれを聞いて、雨が降っていたのにも関わらず、『笠と蓑はありますか。あれば貸して下さい。そのススキの事を習いに、今から渡辺の聖のところへ行って参ります』と言った。『あまりにせっかちですね。雨がやんでからでいいでしょう』と周りの人が言ったのだが、『とんでもないことを言わないで下さい。人の命が雨の晴れ間をも待つものでしょうか。私が死んで、聖も死ねば、誰が尋ねて誰が教えることができるんですか。』と登蓮法師は言い返した。登蓮法師は雨の中を駆け出して、渡辺の聖にススキの事を習いに行ってしまったと伝えられているが、立派な即断であり、なかなか出来ないことでもある。
『敏き時は、即ち功あり(すぐに行えば、すぐに良い結果が得られる)』と、論語という書にも書かれている。ススキを不審に思ってすぐに知ろうとした登蓮法師のように、乗馬・早歌の道に逸れた初めの法師も、一大事の因縁(諸仏が出現する機縁と仏道の精進)こそを思うべきであった。
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