『徒然草』の173段~176段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の173段~176段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第173段:小野小町が事、極めて定かならず。衰へたる様は、「玉造(たまづくり)」と言ふ文(ふみ)に見えたり。この文、清行が書けりといふ説あれど、高野大師(こうやだいし)の御作(ごさく)の目録に入れり。大師は承和(じょうわ)の初めにかくれ給へり。小町が盛りなる事、その後の事にや。なほおぼつかなし。

[現代語訳]

平安初期(9世紀)の六歌仙の一人である小野小町という女性のことは、全くはっきりとした事が分からない。小野小町の美貌の衰微していく様子が『玉造』という書物に書かれている。この『玉造』という書物は、三善清行が書いたという説があるが、高野山の弘法大師(空海)の著作の目録にも『玉造』という書名が掲載されているのである。

弘法大師は承和二年(835年)に亡くなられている。その頃の小町はまだ十代の子どもだったと推測され、小町の美貌や才能が開花して盛りになったのは大師が亡くなった後の事になる。小野小町の事跡についてははっきりしないのだ。

[古文]

第174段:小鷹(こたか)によき犬、大鷹(おおたか)に使ひぬれば、小鷹にわろくなるといふ。大に附き小を捨つる理、まことにしかなり。

人事(にんじ)多かる中に、道を楽しぶより気味深きはなし。これ、実(まこと)の大事なり。一度、道を開きて、これに志さん人、いづれのわざか廃れざらん、何事をか営まん。愚かなる人といふとも、賢き犬の心に劣らんや。

[現代語訳]

『雀・鶉(うずら)・鴫(しぎ)』などを叢(くさむら)から追い出す小鷹狩用の犬を、大鷹狩(雁・鶴・雉の大物を狙う狩り)に使うと、その犬は小鷹狩で使えなくなってしまうという。大について小を捨ててしまうという理屈は、全くその通りである。

人間のやる事が多い中で、仏道を楽しむよりも味わい深いものなど無いのだ。これは本当に大切なことである。一度、仏の道を進むことを決めて、これに志した人はどの技術が廃れるというのか、他に何事に取り組もうというのか。どんなに愚かな人間であっても、賢い犬の心に劣るということがあるだろうか、いやそんな事はない。

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[古文]

第175段:世には、心得ぬ事の多きなり。ともある毎(ごと)には、まづ、酒を勧めて、強ひ飲ませたるを興とする事、如何なる故とも心得ず。飲む人の、顔いと堪え難げに眉を顰め、人目を測りて捨てんとし、逃げんとするを、捉へて引き止めて、すずろに飲ませつれば、うるはしき人も、忽ち(たちまち)に狂人となりてをこがましく、息災なる人も、目の前に大事の病者となりて、前後も知らず倒れ伏す。

祝ふべき日などは、あさましかりぬべし。明くる日まで頭痛く、物食はず、によひ臥し、生を隔てたるやうにして、昨日の事覚えず、公・私の大事を欠きて、煩ひとなる。人をしてかかる目を見する事、慈悲もなく、礼儀にも背けり。かく辛き目に逢ひたらん人、ねたく、口惜しと思はざらんや。人の国にかかる習ひあなりと、これらになき人事にて伝へ聞きたらんは、あやしく、不思議に覚えぬべし。

人の上にて見たるだに、心憂し。思ひ入りたるさまに、心にくしと見し人も、思ふ所なく笑ひののしり、詞多く、烏帽子歪み、紐外し、脛高く掲げて、用意なき気色、日来の人とも覚えず。女は、額髪(ひたいがみ)晴れらかに掻きやり、まばゆからず、顔うちささげてうち笑ひ、盃持てる手に取り付き、よからぬ人は、肴(さかな)取りて、口にさし当て、自らも食ひたる、様あし。

声の限り出して、おのおの歌ひ舞ひ、年老いたる法師召し出されて、黒く穢き(きたなき)身を肩抜ぎて、目も当てられずすぢりたるを、興じ見る人さへうとましく、憎し。或(ある)はまた、我が身いみじき事ども、かたはらいたく言ひ聞かせ、或は酔ひ泣きし、下ざまの人は、罵り合ひ、争ひて、あさましく、恐ろし。恥ぢがましく、心憂き事のみありて、果は、許さぬ物ども押し取りて、縁より落ち、馬・車より落ちて、過しつ。

物にも乗らぬ際は、大路をよろぼひ行きて、築泥(ついひじ)・門の下などに向きて、えも言はぬ事どもし散らし、年老い、袈裟掛けたる法師の、小童の肩を押へて、聞えぬ事ども言ひつつよろめきたる、いとかはゆし。

かかる事をしても、この世も後の世も益あるべきわざならば、いかがはせん、この世には過ち多く、財を失ひ、病をまうく。百薬の長とはいへど、万の病は酒よりこそ起れ。憂忘るといへど、酔ひたる人ぞ、過ぎにし憂さをも思い出でて泣くめる。後の世は、人の知恵を失ひ、善根を焼くこと火の如くして、悪を増し、万の戒を破りて、地獄に堕つべし。「酒をとりて人に飲ませたる人、五百生が間、手なき者に生る」とこそ、仏は説き給ふなれ。

かくうとましと思ふものなれど、おのづから、捨て難き折もあるべし。月の夜、雪の朝、花の本にても、心長閑(のどか)に物語して、盃出したる、万の興を添ふるわざなり。つれづれなる日、思ひの外に友の入り来て、とり行ひたるも、心慰む。馴れ馴れしからぬあたりの御簾の中より、御果物・御酒など、よきやうなる気はひしてさし出されたる、いとよし。冬、狭き所にて、火にて物煎りなどして、隔てなきどちさし向ひて、多く飲みたる、いとをかし。

旅の仮屋、野山などにて、「御肴何がな」など言ひて、芝の上にて飲みたるも、をかし。いたう痛む人の、強ひられて少し飲みたるも、いとよし。よき人の、とり分きて、「今ひとつ。上少し」などのたまはせたるも、うれし。近づかまほしき人の、上戸にて、ひしひしと馴れぬる、またうれし。

さは言へど、上戸(じょうご)は、をかしく、罪許さるる者なり。酔ひくたびれて朝寝したる所を、主の引き開けたるに、惑ひて、惚れたる顔ながら、細き髻(もとどり)差し出し、物も着あへず抱き持ち、ひきしろひて逃ぐる、掻取姿(かいとりすがた)の後手、毛生ひたる細脛(ほそはぎ)のほど、をかしく、つきづきし。

[現代語訳]

この世には、よく分からない事が多い。これという宴のある時には、まず酒飲みはみんなに酒を注いで、飲みたくない人にまで酒を飲ませる事を強いて面白がったりする。なぜ、そんな無茶をするのか分からない。無理に酒を飲まされる人は、堪えがたい表情をして眉をひそめ、人目を盗んで密かに酒を捨てようとし、酒宴から逃げだそうとするのを、酒飲みは捕まえて引き止め、むやみに飲ませるのだが、きちんとした礼儀正しい人でも、たちまち狂人となって馬鹿な振舞いを始めてしまう。健康な人であっても、飲めない酒を飲めば、重症の病人のようになってしまい前後不覚になって倒れてしまう。

祝うべき日の宴なども、酒の飲めない人にとってはひどいものである。明くる日まで頭が痛くなって、物も食わずにうめいて倒れ、まるで生まれ変わったかのように昨日のことを何も覚えていない。公私の大事な仕事があっても欠席してしまい、他人に迷惑を掛ける。酒は人をこんなつらい目に遭わせるのであり、慈悲もなければ礼儀というものもない。こんな辛い目に遭わされた下戸の人は、酒も宴も、忌々しく恨めしいものになるのではないか。異国にはこんな飲酒の風習があると、飲酒の風習がない国の人が伝え聞いたならば、何とも異様で不思議な話だと思うだろう。

人ごとだと思って見ていても、酔っている者は心配である。思慮深そうで奥ゆかしく見えた人でも、酒を飲むと物事を考えることもなく笑って罵ったりする。言葉が多くなり、烏帽子は歪んで、紐を外して、脛を高く上げて股間が丸見えとなる準備のない様子は、日頃の思慮深き人とも思えない。

清楚に見える女性も、酒を飲めば髪をかきやって額を晴れやかにみんなに披露して、恥ずかしげもなく顔を晒し、大口を開けて笑い出すのだ、男の盃を持つ手に取り付いたり、更に慎みのない人は肴を取って男の口にまで持っていったり、それを逆の端から自分も食べたりするので、行儀はとても悪い。酔っぱらいは、声の限りを出して、みんなで歌い踊るのだが、やがて、年老いた法師も召し出されてきて、黒く汚い上半身を晒して身をよじりながら歌い踊るのである。とても見られたような見せ物ではないのだが、こんなものを喜んで見ている人さえ疎ましく憎らしく感じてしまう。

ある者は、自分がどんなに高貴ですごいかということを、恥ずかしげも無く他人に言い聞かせ、ある者は酔って泣きだし、身分の低い従者達は、怒鳴り合って争っているのだが、その様子はあさましくて恐ろしい。酔っぱらいは、恥ずかしくて心配になるような事ばかりをしでかして、最後は、他人のモノを取り合って、縁側から落ちたり、馬・車から落ちてしまって怪我をする。車に乗らないような人は、大路をよろよろとして歩いて帰り、垣根・門の下などに向けて言葉にしたくもないような事(放尿)をやってしまう。年老いて袈裟をかけた先ほど踊っていた法師が、小童の肩を抑えながら、誰に聞かせるでもなく何かを言いながらよろめいている、とても見苦しいものだ。

こんな情けない行為をしても、飲酒がこの世でも後の世でも利益のある事ならば、どうだろうかとは思うが実際には何の利益もない。この世には過ちが多くて、酒で財産を失ったり、病いを得たりしてしまう。酒は百薬の長とは言うが、病いの多くは酒が原因である。酒でこの世の憂さを忘れるとは言っても、酔った人は過ぎた嫌なことも思い出して泣いている。酒は人の知恵を奪って、積徳の善根を焼くことは火のようなものであり、悪を増長させて、全ての戒めを破ることにもつながり、来世では地獄に堕ちるだろう。『酒を手にとって人に飲ませた者は、五百生の間、手のない者に生まれ変わる』と、仏様も説いておられるのだ。

酒はこのように疎ましいモノではあるが、時には捨て難いという時もある。月の夜や雪の朝、桜の木の下で、心のどかに語り合って、その傍らに酒の盃がある、これはあらゆる事物に興趣を添える業(わざ)というべきものである。手持ち無沙汰で退屈な日に、思いのほか友人がやって来て、盃を交わすというのも心が慰められる。あまり親しくない貴人の御簾の中から、果物や酒などを優雅な様子で差し出されるというのも、とても良いものだ。

冬に、狭い家の中で煎り物などをつつきながら、隔てのない親しい相手と向き合って、多く酒を飲むというのはとても楽しい。旅の仮屋や野山で『肴になるものは何かないか』などと言い合いながら、芝の上で酒を飲むのも愉快である。飲めない人が無理強いされて少しだけ飲むのも、なかなか良い。高貴な方からお酌をして貰って、『もうひとつどうですか。まだ飲み足りないでしょう』などと酒を勧められるのも嬉しい。お近づきになりたかった人が、酒が飲める上戸で、飲むうちに段々と打ち解けていくのも、また嬉しいものだ。

そうは言ったけれど、上戸の酒飲みは面白くて罪のない者たちである。酔いくたびれて引き戸にもたれかかって朝寝をしてると、主人が戸を引き開けて焦って戸惑っている。寝ぼけた顔をしながら、烏帽子もかぶり忘れて髻を出したまま、着物も着れずに抱え持って、帯をひきずって逃げようとする。その裾をたくしあげた後ろ姿、毛が生えた細脛のあたりがおかしく感じられて、その姿は罪のない上戸に似つかわしいものだ。

[古文]

第176段:黒戸(くろど)は、小松御門、位に即かせ給ひて、昔、ただ人にておはしましし時、まさな事せさひ給ひしを忘れ給はで、常に営ませ給ひける間なり。御薪に煤けたれば、黒戸と言ふとぞ。

[現代語訳]

清涼殿にある北廊の西向きの戸は『黒戸の御所』と呼ばれる。小松の御門(光孝天皇)が即位なされる以前、ただの人であられた時には、御自分で料理をなされていたそうだ。その事を忘れずに、即位されてからもお戯れで以前のように自分で料理をしておられたので、薪の煤(すす)で扉は黒く汚れることになり、『黒戸の御所』と言われるようになった。

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