『徒然草』の202段~206段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の202段~206段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第202段:十月を神無月と言ひて、神事に憚る(はばかる)べきよしは、記したる物なし。本文も見えず。但し、当月、諸社の祭なき故に、この名あるか。

この月、万の神達、太神宮に集り給ふなど言ふ説あれども、その本説なし。さる事ならば、伊勢には殊に祭月とすべきに、その例もなし。十月、諸社の行幸(ぎょうこう)、その例も多し。但し、多くは不吉の例なり。

[現代語訳]

十月を『神無月(かんなづき)』と言うが、神社に神のいない月だとして祭りを遠慮する理由を記した書物はない。古典にもその根拠となるような文書はない。ただし、十月にはどこの神社も祭りを行わないので、神無月と呼ばれるようになったのだろうか。

十月には、全ての神々が伊勢神宮に集まるなどという説もあるが、伊勢に集まるという根拠のある説があるわけではない。神々が集まるのであれば、伊勢神宮では特別な祭りの月とすべきなのにその例もないのだ。十月は、各神社へ天皇がご参拝するという例も多い。だが、その多くは不吉な例である。

現代の通説では、神無月に神々が集まるのは三重県の『伊勢神宮』ではなくて島根県の『出雲大社』であるが、吉田神社の神官の家系でもある兼好法師が、10月に神々が集まる場所を『伊勢神宮』と考えているのが興味深いところである。

[古文]

第203段:勅勘(ちょっかん)の所に靫(ゆき)懸くる作法、今は絶えて、知れる人なし。主上(しゅじょう)の御悩(ごのう)、大方、世中の騒がしき時は、五条の天神に靫を懸けらる。鞍馬に靫の明神といふも、靫懸けられたりける神なり。看督長(かどのおさ)の負ひたる靫をその家に懸けられぬれば、人出で入らず。この事絶えて後、今の世には、封を著くる(つくる)ことになりにけり。

[現代語訳]

勅命によって謹慎処分となった者の家には『靫(ゆき:竹や革・銅で作られた矢を入れて背負う入れ物)』をかける作法があったが、今では知る人がない。天皇の御病気の時、あるいは世の中が乱れた時には、五条の天神という神社に靫をかけられる。鞍馬にある靫の明神というのも、靫をかけられた神である。朝廷の警察機構である検非違使庁の看督長が背負った靫を、謹慎中の人物の家に懸ければ、人の出入りは出来なくなるのだ。この罪人(謹慎者)を罰するための制度・慣習は今ではすっかり絶えてしまっているが、今の世(六波羅探題が管轄する武家の世)では、謹慎者の家の門を封印するようになっている。

[古文]

第204段:犯人を笞(しもと)にて打つ時は、拷器に寄せて結ひ附くる(ゆいつくる)なり。拷器の様も、寄する作法も、今は、わきまへ知れる人なしとぞ。

[現代語訳]

罪を犯した犯人を木の枝で造った鞭でムチ打つ時には、拷問器に寄せて縛りつけるものだ。だが、拷問器の形状も、拷問器に縛りつける方法も、今ではそれを知っている人がもういない(朝廷の検非違使庁が警察として治安を維持する時代が終わりを告げて、幕府の六波羅探題が京都の治安を担当する時代となった)。

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[古文]

第205段:比叡山に、大師勧請(だいしかんじょう)の起請(きしょう)といふ事は、慈恵僧正(じけいそうじょう)書き始め給ひけるなり。起請文といふ事、法曹にはその沙汰なし。古の聖代、すべて、起請文につきて行はるる政はなきを、近代、この事流布したるなり。

また、法令には、水火に穢れを立てず。入物には穢れあるべし。

[現代語訳]

比叡山の開祖である伝教大師・最澄の『霊威の召還』は、慈恵僧正によって始められたと書き伝えられている。神仏や大師を召還する際の契約書である起請文は、召還を実際に行った慈恵僧正以外の僧侶・法師をも縛るものではない。古代の神聖な霊威が残っていた時代には、こういう起請文(誓約書)に基づいて政治を行ったという例はない。最近になって、神仏・大師と契約を交わす起請文が政治・祭祀の場で流行してきたのである。

また、公的な法令では水・火にはケガレを認めない。だが、入れ物にはケガレがあるはずであるという。

[古文]

第206段:徳大寺故大臣殿、検非違使の別当の時、中門にて使庁の評定行はれける程に、官人章兼(あきかね)が牛放れて、庁の中へ入りて、大理の座の浜床(はまゆか)の上に登りて、にれうちかみて臥したりけり。重き怪異(かいい)なりとて、牛を陰陽師(おんみょうじ)の許へ遣すべきよし、各々申しけるを、父の相国聞き給ひて、「牛に分別なし。足あれば、いづくへか登らざらん。オウ弱の官人、たまたま出仕の微牛を取らるべきやうなし」とて、牛をば主に返して、臥したりける畳をば換へられにけり。あへて凶事なかりけるとなん。

「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」と言へり。

[現代語訳]

今は亡き徳大寺の大臣殿(藤原公孝)が検非違使庁の長官の時に、庁舎の屋敷の中門で検非違使庁の評定が行われたことがあった。その評定の途中で、中原章兼という検非違使の下級役人の牛が牛車から離れて、屋敷の中に入ってしまった。その牛は、評定の座の大臣殿が座る席に上がり、草をくちゃくちゃと反芻しながら横になってしまった。

それを見ていた人たちは、これはめったにない怪異現象だと言って、その牛を陰陽師の元へやるべきだという意見もでた。だが、徳大寺殿の父である徳大寺実基が騒ぎを聞きつけておっしゃった。『牛に分別なんてない。足があればどこへでも登るものだ。微禄の下級役人がたまたま出仕に利用しただけの牛を取りあげることは無いだろう』と。徳大寺殿の父がそう言われるので、その牛は主人に返すことにして、牛が寝て汚れた畳を取り替えるだけで終わらせた。その簡単な対応だけで、何も凶事(悪い事)が起こることも無かった。

『怪しい事象を見ても、怪しまなければ、怪しい事柄は自然に破れる(何も奇妙な凶事は起こらない)』と言うことである。

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