兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。
『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の215段~218段が、このページによって解説されています。
参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)
[古文]
第215段:平宣時朝臣(たいらののぶとき・あそん)、老の後、昔語に、「最明寺入道、或宵の間に呼ばるる事ありしに、『やがて』と申しながら、直垂のなくてとかくせしほどに、また、使来りて、『直垂などの候はぬにや。夜なれば、異様なりとも、疾く』とありしかば、萎えたる直垂、うちうちのままにて罷りたりしに、銚子に土器取り添へて持て出でて、『この酒を独りたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。肴こそなけれ、人は静まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ』とありしかば、紙燭さして、隅々を求めし程に、台所の棚に、小土器に味噌の少し附きたるを見出でて、『これぞ求め得て候ふ』と申ししかば、『事足りなん』とて、心よく数献に及びて、興に入られ侍りき。その世には、かくこそ侍りしか」と申されき。
[現代語訳]
鎌倉幕府の重臣・大仏宣時が、老いてから昔話をした。『ある日の夕暮れに、執権の最明寺入道様(北条時頼)に呼ばれた。「すぐに参ります」と使者には伝えながらも、拝謁するのにふさわしい直垂がない。あれこれとしているうちに、また最明寺入道様の使者が来て、「直垂などがございませんか。夜なので変な格好でも良いから早く来てください」と言う。なので、よれよれの直垂で家にいたままの普段着の格好で参上すると、入道様は銚子とお猪口を取り揃えて待っていた。
『この酒を独りで飲むのが寂しくて、貴公を呼んだのである。だが、酒の肴がない。人はもう寝静まっているので、何か肴にふさわしいものがないか、どこまでも探してきて貰えないだろうかとおっしゃる。紙燭を灯して隅々まで探し求めるうちに、台所の棚の上に、味噌の少しついた素焼きの器を見つけ出した。「探していると、これを見つけました」と申し上げると、「この味噌で十分である」と言って、気持ちよく何杯かお酒を飲み、興に乗られました。あの時代は、そんなものだったなあ』と大仏宣時は申された。
[古文]
第216段:最明寺入道、鶴岡の社参の次に、足利左馬入道の許へ、先づ使を遣して、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様、一献に打ち鮑(あわび)、二献に海老、三献にかひもちひにて止みぬ。その座には、亭主夫婦、隆辨僧正、主方の人にて座せられけり。さて、「年毎に給はる足利の染物、心もとなく候ふ」と申されければ、「用意し候ふ」とて、色々の染物三十、前にて、女房どもに小袖に調ぜさせて、後に遣されけり。
その時見たる人の、近くまで侍りしが、語り侍りしなり。
[現代語訳]
鎌倉幕府の執権・北条時頼が、鶴岡八幡宮に参拝したついでに、御家人の足利左馬入道の屋敷にまずは使いを送って、その後に立ち寄られた。時頼様が主賓としてもてなされた時の献立は、一献にあわび、二献は海老、三献にかい餅という感じで終わった。その座には、亭主夫婦だけでなく、隆辨僧正(りゅうべんそうじょう)も主方の人として座っていた。さて、時頼様が、『毎年頂いている足利の染物が、待ち遠しく思われます』と申されると、足利左馬入道は『既に用意してございます』と返し、色々な染め物を三十反、それを目の前で女房どもに小袖に仕立てさせて後で贈られた。
それを実際に見た人が、最近までいらっしゃったので、その人から伝え聞いた話である。
[古文]
第217段:或大福長者(だいふくちょうじゃ)の云はく、「人は、万をさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり。貧しくては、生けるかひなし。富めるのみを人とす。徳をつかんと思はば、すべからく、先づ、その心遣ひを修行すべし。その心と云ふは、他の事にあらず。人間常住の思ひに住して、仮にも無常を観ずる事なかれ。これ、第一の用心なり。次に、万事の用を叶ふべからず。人の世にある、自他につけて所願無量なり。欲に随ひて(したがいて)志を遂げんと思はば、百万の銭ありといふとも、暫くも住すべからず。所願は止む時なし。
財は尽くる期(ご)あり。限りある財をもちて、限りなき願ひに随ふ事、得べからず。所願心に萌す事あらば、我を滅すべき悪念来れりと固く慎み恐れて、小要をも為すべからず。次に、銭を奴の如くして使ひ用ゐる物と知らば、永く貧苦を免るべからず。君の如く、神の如く畏れ尊みて、従へ用ゐる事なかれ。次に、恥に臨むといふとも、怒り恨むる事なかれ。次に、正直にして、約を固くすべし。この義を守りて利を求めん人は、富の来る事、火の燥ける(かわける)に就き、水の下れるに随ふが如くなるべし。銭積りて尽きざる時は、宴飲・声色を事とせず、居所を飾らず、所願を成ぜざれども、心とこしなへに安く、楽し」と申しき。
そもそも、人は、所願を成ぜんがために、財を求む。銭を財とする事は、願ひを叶ふるが故なり。所願あれども叶へず、銭あれども用ゐざらんは、全く貧者と同じ。何をか楽しびとせん。この掟は、ただ、人間の望みを断ちて、貧を憂ふべからずと聞えたり。欲を成じて楽しびとせんよりは、如かじ、財なからんには。癰(よう)・疽(そ)を病む者、水に洗ひて楽しびとせんよりは、病まざらんには如かじ。ここに至りては、貧・富分く所なし。究竟(くきょう)は理即(りそく)に等し。大欲は無欲に似たり。
[現代語訳]
ある大富豪が次のように言った。『人は全てを差し置いて、ただひたすらに富(利益)を得られるほうにつくべきである。貧しくては生きている甲斐もない。富める者のみが人なのである。得をしたいのであれば、まずその心の使い方を磨くべきだ。その心というのは他でもない。人や世の中はいつも同じ状態に落ち着いていて簡単には変化しないという考えをしっかりと持ち、仏教的な智慧・悟りなど働かせて世の中の無常を観照(達観)したりしてはいけない。これが第一の用心である。次に全ての用事を思い通りに終わらせてはいけない。この世の欲望というのは、私でも他の人でも無限である。欲に従って志を遂げようと思うのであれば、百万の金銭があっても暫く休む暇さえない。欲は尽きることがないが、財産のほうは無くなってしまう。
限られた財産で、無限の欲望を満たそうとしてもそれは不可能である。欲望が心に生まれたならば、我が身を滅ぼす悪い思念が起こったと解釈して、自分の欲望を慎み恐れて、小さな用事であっても金銭を使ってはいけない(ケチであるべきだ)。次に、金銭を奴婢のように自分勝手に使うものと考えるならば、永遠に貧苦から抜け出ることはできないということだ。主君のように、神のように畏怖して尊び、自分自身のほうが金に仕えるのだ。次に金銭のことで恥をかいても、怒ったり恨んだりしてはいけない。次に、正直に生きて、約束を守ること。これらの正しい道理を守って利益を求める人は、富が向こうからやってくることは、火が乾いた方角に燃えていき、水が低い方向に流れていくのと同じようなものである。お金が貯まって無くならないという時には、宴会や女の色香がなく住居を飾り立てず、欲望を満たさなくても、お金が多くあるというだけで心は常に安らいで楽しいのだ』と。
だが、そもそも人は、自分の欲望を満たすために金を求めるものだ。金銭を価値あるものとするのは、金銭で願いを叶えることができるからである。欲望があっても叶えず、金があっても使わないというのは、全く貧者と同じではないか。ただ延々と金だけ貯めて、何を楽しみにするというのか。この金を貯める話は、自分の欲望を断ち切って、苦労を恐れるなという風に聞こえる。欲望を満たして楽しみとするのは、財産がないということには及ばない。悪性の腫物(皮膚疾患)を患っている者が、水で体を洗うのを楽しみとするよりは、初めから皮膚疾患を病まないほうが良い。ここに至っては、富者と貧者の区別(貧富の格差)が無くなってしまう。菩薩の悟りの段階で最高の悟りに当たる『究竟』は、初期の悟りの入り口に過ぎない『理即』と等しい。大欲というのは、無欲に似ているのである。
[古文]
第218段:狐は人に食ひつくものなり。堀川殿にて、舎人(とねり)が寝たる足を狐に食はる。仁和寺にて、夜、本寺の前を通る下法師に、狐三つ飛びかかりて食ひつきければ、刀を抜きてこれを防ぐ間、狐二疋を突く。一つは突き殺しぬ。二つは逃げぬ。法師は、数多所食はれながら、事故なかりけり。
[現代語訳]
狐は人に噛み付くものである。堀川様の屋敷(大納言・久我通具の子孫が住んだ屋敷)で、番人が寝ていたら足を狐に噛まれた。夜に仁和寺で本殿の前を通った下働きの法師に、狐が三匹飛び掛ってきて噛み付いた。法師は刀を抜いてこれを防ぎ、狐二匹を刀で突いた。一匹は突き殺したが、それ以外の二匹は逃げてしまった。法師は、数ヶ所を狐に噛まれながらも、(生命に別状は無く)大事に至らなかった。
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