兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。
『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の219段~222段が、このページによって解説されています。
参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)
[古文]
第219段:四条黄門(しじょうのこうもん)命ぜられて云はく、「竜秋(たつあき)は、道にとりては、やんごとなき者なり。先日来りて云はく、『短慮の至り、極めて荒涼の事なれども、横笛の五の穴は、聊か(いささか)いぶかしき所の侍るかと、ひそかにこれを存ず。その故は、干(かん)の穴は平調(ひょうちょう)、五の穴は下無調(しもむちょう)なり。その間に、勝絶調(しょうぜつちょう)を隔てたり。上の穴、双調(そうちょう)。次に、鳧鐘調(ふしょうちょう)を置きて、夕(さく)の穴、黄鐘調(おうじきちょう)なり。その次に鸞鏡調(らんけいちょう)を置きて、中の穴、盤渉調(ばんしきちょう)、中と六とのあはひに、神仙調(しんせんちょう)あり。かやうに、間々に皆一律をぬすめるに、五の穴のみ、上の間に調子を持たずして、しかも、間を配る事等しき故に、その声不快なり。されば、この穴を吹く時は、必ずのく。のけあへぬ時は、物に合はず。吹き得る人難し』と申しき。料簡(りょうけん)の至り、まことに興あり。先達、後生を畏ると云ふこと、この事なり」と侍りき。
他日に、景茂(かげもち)が申し侍りしは、「笙(しょう)は調べおほせて、持ちたれば、ただ吹くばかりなり。笛は、吹きながら、息のうちにて、かつ調べもてゆく物なれば、穴毎(ごと)に、口伝の上に性骨(しょうこつ)を加へて、心を入るること、五の穴のみに限らず。偏(ひとえ)に、のくとばかりも定むべからず。あしく吹けば、いづれの穴も心よからず。上手はいづれをも吹き合はす。呂律(りょりつ)の、物に適はざるは、人の咎(とが)なり。器の失にあらず」と申しき。
[現代語訳]
四条の黄門様(南朝の重臣・藤原隆資)がなんとなく語られた。『笙(しょう)の名人の豊原竜秋は、音楽の道に関しては素晴らしい人物である。先日、竜秋が来て次のように言っていたよ。「短慮の至りであって極めて口にしにくいことですが、横笛の五の穴には、いささか疑問点がございます。その理由は、干の穴は平調、五の穴は下無調。その間に、勝絶調を隔てて上の穴が双調、次に鳧鐘調を置いて、夕の穴は黄鐘調となります。その次に鸞鏡調を置いて、中の穴が盤渉調、中と六とのあいだに、神仙調というのがあります。このように横笛の吹き口は、みんな一律に調子を揃えているのですが、五の穴のみが上の間に調子を持たず、吹き口の間隔だけは他の穴と等しいので、その声色が不快になりがちなのです。なので、この穴を吹く時には、必ず口を退けます。退けないと、他の楽器に合わないのです。五の穴を適切に吹ける人は滅多にいません」と申していた。本当に簡潔で優れた意見であり、強く興味を引かれる。先達が後生を畏れるとは、この事であるな』と申した。
その話を聞いていた大神景茂(おおみわのかげもち)が後日に言った。『笙なら調律さえ合わせれば、後はただ吹くだけだ。横笛は、吹きながら調律を合わせて調べていくものだ。なので、その穴ごとに口伝の教えがあるだけではなく、吹き手の生来の勘を加えて吹かなければならない。その勘の働かせ方は、五の穴のみに限らないし、口を退けるばかりとも限らないのだ。悪く吹けば、どの穴も良くない音がする。上手な名人ならば、どの音も吹いて合わせることができる。調子が他の楽器と合わないのは、奏者の責任であって、楽器のせいではない』と申した。
[古文]
第220段:「何事も、辺土は賤しく、かたくななれども、天王寺の舞楽のみ都に恥ぢず」と云ふ。天王寺の伶人の申し侍りしは、「当寺の楽は、よく図を調べ合はせて、ものの音のめでたく調り(ととのおり)侍る事、外よりもすぐれたり。故は、太子の御時の図、今に侍るを博士とす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。その声、黄鐘調(おうじきちょう)の最中なり。寒・暑に随ひて上り・下りあるべき故に、二月涅槃会(ねはんえ)より聖霊会(しょうりょうえ)までの中間を指南とす。秘蔵の事なり。この一調子をもちて、いずれの声をも調へ侍るなり」と申しき。
凡そ(およそ)、鐘の音は黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。西園寺の鐘、黄鐘調に鋳らる(いらる)べしとて、数多度(あまたたび)鋳かへられけれども、叶はざりけるを、遠国より尋ね出されけり。浄金剛院(じょうこんごういん)の鐘の音、また黄鐘調なり。
[現代語訳]
『何につけても京都から離れた辺境の土地は下品で粗野であるけれど、天王寺の舞楽のみは都に負けていない』と言う。それを聞いた天王寺の楽人が申すには、『私どもの寺の舞楽は図竹を使って調律を合わせており、楽器の音の調律が綺麗に整っているという点において、他よりも優れています。理由は、聖徳太子の時代からの調律の秘策である図竹(調律合わせのための笛)を今に残していて、基準にしているからです。いわゆる六時堂の前にある鐘の音を調律に使います。その鐘の音の音程は、『黄鐘調』そのものです。寺の鐘は暑さ・寒さで伸び縮みするので、音程にも上り下りがあります。それで二月の涅槃会より聖霊会までの間の音を標準としているのです。これが秘蔵の調律合わせの方法です。ただこの一調子のみを用いて、全ての楽器の調律を合わせることができます』と申し上げた。
およそ、鐘の音というのは『黄鐘調』であるべきだ。これは、無常の調子であり祇園精舎の無常院の音色でもある。西園寺の鐘も黄鐘調になるように鋳られたが、何度も鋳かえたけれども出来なくて、結局は遠国より探し出した鐘を使うことになった。浄金剛院の鐘の音も、また黄鐘調の音程になっている。
[古文]
第221段:「建治・弘安の比は、祭の日の放免の附物に、異様なる紺の布四五反にて馬を作りて、尾・髪には燈心をして、蜘蛛の網書きたる水干に附けて、歌の心など言ひて渡りし事、常に見及び侍りしなども、興ありてしたる心地にてこそ侍りしか」と、老いたる道志どもの、今日も語り侍るなり。
この比は、附物、年を送りて、過差殊の外になりて、万の重き物を多く附けて、左右の袖を人に持たせて、自らは鉾をだに持たず、息づき、苦しむ有様、いと見苦し。
[現代語訳]
『後宇多天皇の御世である建治・弘安の頃は、賀茂祭の日に無罪放免された罪人が行列して余興をするが、あの頃は変わった紺色の布、四・五反ほどで馬を作り、馬の尾や鬣(たてがみ)にろうそくを灯し、蜘蛛の巣の柄(デザイン)の水干にその飾り馬をつけたのを着ていた。歌の心などと言って賀茂祭に参加していたが、祭りの時にいつも見ている光景ではあるが、実に興趣のあることをしているなという気持ちであった』と、年老いた役人たちが今でも語っている。
最近の賀茂祭は、年ごとに飾りが過剰になっており、放免たちは色々と重い飾りを多く身に付けている。袖の左右を人に持たせて、鉾さえ持てずに息を切らして苦しんでる有様というのは非常に見苦しいものではある。
[古文]
第222段:竹谷乗願房(たけたにのじょうがんぼう)、東二条院へ参られたりけるに、「亡者の追善には、何事か勝利多き」と尋ねさせ給ひければ、「光明真言(こうみょうしんごん)・宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)」と申されたりけるを、弟子ども、「いかにかくは申し給ひけるぞ。念仏に勝る事候ふまじとは、など申し給はぬぞ」と申しければ、「我が宗なれば、さこそ申さまほしかりつれども、正しく、称名を追福に修して巨益あるべしと説ける経文を見及ばねば、何に見えたるぞと重ねて問はせ給はば、いかが申さんと思ひて、本経の確かなるにつきて、この真言・陀羅尼をば申しつるなり」とぞ申されける。
[現代語訳]
竹谷上人が、東二条院様(後深草天皇の皇后)の元へ参られた時に皇后から、『亡き人の供養で、勝利・成仏につながるお経はないものでしょうか?』と尋ねられた。『光明真言の宝篋印陀羅尼でございます』と答えたが、弟子たちは『どうしてこのように申し上げなかったのですか。なぜ念仏に勝るものなどないということを言わなかったのですか』と質問した。
『もちろん、「南無阿弥陀仏」はうちの浄土宗だから、そう言いたかったところなんだけど、「南無阿弥陀仏」で死者を成仏させた上で更に大きな利益まであると書いた経文は見たことがない。どの経典にそんな事が書いてあるのかと質問されたら、何と答えれば良いのかと思って、根拠とする原典が確かな「真言の陀羅尼」を勧めたわけだ』と申した。
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