紫式部が平安時代中期(10世紀末頃)に書いた『源氏物語(げんじものがたり)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『源氏物語』は大勢の女性と逢瀬を重ねた貴族・光源氏を主人公に据え、平安王朝の宮廷内部における恋愛と栄華、文化、無常を情感豊かに書いた長編小説(全54帖)です。『源氏物語』の文章は、光源氏と紫の上に仕えた女房が『問わず語り』したものを、別の若い女房が記述編纂したという建前で書かれており、日本初の本格的な女流文学でもあります。
『源氏物語』の主役である光源氏は、嵯峨源氏の正一位河原左大臣・源融(みなもとのとおる)をモデルにしたとする説が有力であり、紫式部が書いた虚構(フィクション)の長編恋愛小説ですが、その内容には一条天皇の時代の宮廷事情が改変されて反映されている可能性が指摘されます。紫式部は一条天皇の皇后である中宮彰子(藤原道長の長女)に女房兼家庭教師として仕えたこと、『枕草子』の作者である清少納言と不仲であったらしいことが伝えられています。『源氏物語』の“宵過ぐるほど、少し寝入り給へるに、御枕上に~”が、このページによって解説されています。
参考文献
『源氏物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),玉上琢弥『源氏物語 全10巻』(角川ソフィア文庫),与謝野晶子『全訳・源氏物語 1~5』(角川文庫)
[古文・原文]
宵過ぐるほど、少し寝入り給へるに、御枕上に、いとをかしげなる女ゐて、「己がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かく、ことなることなき人を率ておはして、時めかし給ふこそ、いとめざましくつらけれ」
とて、この御かたはらの人をかき起こさむとす、と見給ふ。
物に襲はるる心地して、おどろき給へれば、火も消えにけり。うたて思さるれば、太刀を引き抜きて、うち置き給ひて、右近を起こし給ふ。これも恐ろしと思ひたるさまにて、参り寄れり。
「渡殿なる宿直人起こして、『紙燭さして参れ』と言へ」とのたまへば、
「いかでかまからむ。暗うて」と言へば、
[現代語訳]
宵を過ぎる頃、少し寝入りになられたが、お枕の上に、とても美しい感じの女が座っていて、
「私があなたのことをとても素敵だとお慕い申し上げているのに、お訪ねもして下さらず、このような特に優れているわけでもない女を連れていらっしゃって、ご寵愛をなされているのは、本当に癪に障るし辛いのです」
と言って、自分の横の人を起こそうとしているという夢をご覧になられた。
魔物に襲われるような気持ちがして、目をお覚ましになると、火も消えていた。気持ち悪いとお思いになられて、太刀を引き抜いて、そっと横にお置きになって、右近を起こされた。この人も怖がっている様子で、参上して近寄ってきた。
「渡殿にいる宿直人を起こして、『紙燭をつけなさい』と言ってこい」とおっしゃると、
「どうして行けるでしょうか。暗くて(怖い)」と言うので、
[古文・原文]
「あな、若々し」と、うち笑ひ給ひて、手をたたき給へば、山彦の答ふる声、いとうとまし。人え聞きつけで参らぬに、この女君、いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思へり。汗もしとどになりて、我かの気色なり。
「物怖ぢをなむわりなくせさせ給ふ本性にて、いかに思さるるにか」と、右近も聞こゆ。「いとか弱くて、昼も空をのみ見つるものを、いとほし」と思して、
「我、人を起こさむ。手たたけば、山彦の答ふる、いとうるさし。ここに、しばし、近く」
とて、右近を引き寄せ給ひて、西の妻戸に出でて、戸を押し開け給へれば、渡殿の火も消えにけり。
[現代語訳]
「あぁ、子供のようだ」と、少しお笑いになられて、手をお叩きになると、こだまのように応える声がして、本当に不気味である。誰もその音を聞いておらず参上して来ないので、この女君は、ひどく振るえて脅えて、どうしてよいか分からないと思っている。汗もびっしょりとかいていて、自分を見失っているような様子である。
「何でも怖がられるような性質・性格ですから、どんなに怖がっていることでしょうか」と、右近も申し上げる。「とてもか弱くて、昼も空ばかり見ていたものです、可哀想に」とお思いになられて、
「私が、誰か人を起こそう。手を叩くと、山彦が返ってきて、とてもうるさい。ここに、しばらく近くへいなさい」
と言って、右近を引き寄せなさって、西の妻戸に出て、戸を押し開けられると、渡殿の火も消えていた。
[古文・原文]
風少しうち吹きたるに、人は少なくて、さぶらふ限りみな寝たり。この院の預りの子、むつましく使ひ給ふ若き男、また上童一人、例の随身ばかりぞありける。召せば、御答へして起きたれば、
「紙燭さして参れ。『随身も、弦打して、絶えず声づくれ』と仰せよ。人離れたる所に、心とけて寝ぬるものか。惟光朝臣の来たりつらむは」と、問はせ給へば、
「さぶらひつれど、仰せ言もなし。暁に御迎へに参るべきよし申してなむ、まかではべりぬる」と聞こゆ。この、かう申す者は、滝口なりければ、弓弦いとつきづきしくうち鳴らして、「火あやふし」と言ふ言ふ、預りが曹司の方に去ぬなり。内裏を思しやりて、「名対面は過ぎぬらむ、滝口の宿直奏し、今こそ」と、推し量り給ふは、まだ、いたう更けぬにこそは。
[現代語訳]
風が少し吹いていて、人気も少なくて、仕えている者たちは皆寝ている。この院の管理人の子供で、仲良くお使いになっている若い男、そして殿上の童一人と、いつもの随身だけがいた。お呼び寄せになられると、返事をして起きてきたので、
「紙燭を点けて持ってきなさい。『仕えている者たちにも、弦打ちをして、絶えず音を立てているように』と命令を伝えよ。人気のない所に、安心して寝ている者があるか。惟光朝臣が来ていたようだが」と、お尋ねになられると、
「ここに控えていましたが、ご命令もありません。早暁にお迎えに参上すべき旨を申して、退出してきました」と申し上げる。この、こう申す者は滝口の武士だったので、弓の弦を本当に手馴れた様子で打ち鳴らして、「火の用心」と言いながら、管理人の部屋の方角へ去ったようだ。内裏をお思いになられて、「名対面は過ぎただろう、滝口の宿直奏しは、今ごろかな」と推量されているのは、まだ、さほど夜も更けていないのだろう。
トップページ> Encyclopedia>
日本の古典文学> 現在位置
心の問題
プライバシーポリシー