清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。
このウェブページでは、『枕草子』の『「細殿に、便なき人なむ、暁に笠さして出でける」と言ひいでたるを~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。
参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)
[古文・原文]
224段
「細殿に、便なき人なむ、暁に笠さして出でける」と言ひいでたるを、よく聞けば、わが上なりけり。地下(じげ)など言ひても、目やすく、人に許されぬばかりの人にもあらざなるを、あやしの事や、と思ふほどに、上より御文持て来て、「返事(かえりごと)、ただ今」と、仰せられたり。何事にかとて、見れば、大笠の絵(おおがさのかた)を描きて、人は見えず、ただ手の限りをとらへさせて、下に、
山の端(やまのは)明けし朝(あした)より
と書かせ給へり。なほ、はかなき事にても、ただめでたくのみおぼえさせ給ふに、恥づかしく、心づきなき事はいかでか御覧ぜられじと思ふに、かかるそら言の出でくる、苦しけれど、をかしくて、異紙(ことかみ)に、雨をいみじう降らせて、下に、
「ならぬ名の立ちにけるかな
さてや、濡衣(ぬれぎぬ)にはなり侍らむ」と啓したれば、右近の内侍(うこんのないし)などに語らせ給ひて、笑はせ給ひけり。
[現代語訳]
224段
「細殿に不都合な男の人が、明け方に笠をさして出て行った」と女房たちが言い出したのを、よく聞いてみると、それは自分のことであった。地下(じげ)の身分の男とはいっても、それほど身分は低くなく、人に遊びを許されないような男でもないのに、どうしてなのか怪しいなと思っていると、中宮からお手紙を持ってきて、「返事を今すぐに」と、使いものが仰せを伝えた。何事かと思って手紙を開いて見てみると、大笠の絵が描いてあり、人は見えずに、ただ手だけで笠を捕まえさせて、その下に、
山の端(やまのは)明けし朝(あした)より
とお書きになっておられる。やはり、こんな小さなことでも、ただ素晴らしいと思わせられてしまうので、恥ずかしいこと、不適切なことは絶対に御覧にいれまいと思っているのに、こんな噂話が出て来るのは苦しいのだけれど、この手紙が面白くて、他の紙に、雨を激しく降らせて、その下に、
「ならぬ名の立ちにけるかな(覚えのない噂話が立ってしまいました)
これで、濡衣(ぬれぎぬ)にはなるでしょう。」と申し上げると、右近の内侍(うこんのないし)などにお話になられて、お笑いになられた。
[古文・原文]
225段
三条の宮におはしますころ、五日の菖蒲(しょうぶ)の輿(こし)など持てまゐり、薬玉まゐらせなどす。若き人々、御匣殿(みくしげどの)など、薬玉して姫宮、若宮につけたてまつらせたまふ。
いとをかしき薬玉ども、ほかよりまゐらせたるに、青ざしといふ物を持て来たるを、青き薄様(うすよう)を艶(えん)なる硯の蓋に敷きて、「これ、籬越し(ませこし)にさぶらふ」とて、まゐらせたれば、
皆人の 花や蝶やと いそぐ日も わが心をば 君ぞ知りける
この紙の端を引き破らせ給ひて書かせ給へる、いとめでたし。
[現代語訳]
225段
三条の宮にいらっしゃる頃、五月五日の菖蒲の輿(しょうぶのこし)など持って参上し、薬玉を献上したりする。若い女房たち、御匣殿(みくしげどの)などが、薬玉を姫宮や若宮のお着物にお付けして差し上げる。
とても風流な感じの薬玉が、色々な所から献上されたが、青ざしという物を持って来たのを、青い薄様(うすよう)をおしゃれな硯箱の蓋に敷いて、「これが、籬越しでございますが」と申し上げて、御覧に入れたのだが、
(中宮)皆人の 花や蝶やと いそぐ日も わが心をば 君ぞ知りける
その薄様の紙の端をお引き破りになって、お書きになられたのが、とても素晴らしい。
トップページ> Encyclopedia>
日本の古典文学>現在位置
プライバシーポリシー