『枕草子』の現代語訳:131

清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

このウェブページでは、『枕草子』の『よろづのことよりも、情あるこそ、男はさらなり、女も、めでたくおぼゆれ。~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。

参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

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[古文・原文]

254段

よろづのことよりも、情あるこそ、男はさらなり、女も、めでたくおぼゆれ。なげの言葉なれど、切に心に深く入らねど、いとほしきことをば、「いとほし」とも、あはれなるをば、「げに、いかに思ふらむ」など言ひけるを、伝へて聞きたるは、さし向ひて言ふよりもうれし。いかで、この人に思ひ知りけりとも見えにしがなと、常にこそおぼゆれ。

かならず思ふべき人、とふべき人は、さるべきことなれば、とり分かれしもせず。さもあるまじき人の、さし答へをも後やすくしたるは、うれしきわざなり。いとやすきことなれど、さらにえあらぬことぞかし。

おほかた、心よき人の、まことにかどなからぬは、男も女も、ありがたきことなめり。また、さる人も多かるべし。

255段

人の上言ふを腹立つ人こそ、いとわりなけれ。いかでか言はではあらむ。わが身をばさしおきて、さばかりもどかしく言はまほしきものやはある。されど、けしからぬやうにもあり、また、おのづから聞きつけて、恨みもぞする、あいなし。また、思ひ放つまじきあたりは、いとほしなど思ひ解けば、念じて言はぬをや。さだになくは、うちいで、笑ひもしつべし。

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[現代語訳]

254段

他のどんなことよりも、情があることが、男はもちろんのこと、女でも、素晴らしいことだと思われる。いい加減な挨拶の言葉でも、本当に深い心から出たものではなくても、人が気の毒なことに対しては、「気の毒に」とも、人が悲しんでいる時には、「本当に、どんなに悲しくお思いでしょう」などと言ったのを、人から口伝えで聞いたのは、差し向かいで言われたのよりも嬉しい。何とかして、その人に感謝している思いを知ってもらいたいものだと、常日頃から思われるものだ。

自分を必ず思ってくれる人、安否を問うてくれる人は、それが当然のことであるから、格別に嬉しいとは思えない。そんな感じでもない人が、答えやすいようにしっかり相槌を打ってくれたのは、嬉しいことである。とても簡単なことなのだけれど、なかなか実際にはできないことなのだ。

大体、性格が良い人で、本当に才能がないわけでもない人は、男でも女でも、なかなかいないもののようである。しかしまた、そういう人も多いのだろうが。

255段

人の悪口を言うのを怒る人は、本当に困ったものだ。どうして悪口を言わないでいられようか。自分のことは差し置いて、それほどどうしても言いたくなるようなこと(他人の悪口を言うことほど言うのを我慢できないこと)があるだろうか。しかし、悪いことのようでもあり、また、自然に本人が悪口を聞きつけて、恨んだりすることもある。割に合わない。また、相手の思いを無くしてしまえそうにない時は、気の毒だなどと思って悪口を控えるから、我慢して言わないだけなのである。そうでなければ、悪口を言い出して、笑いものにしてしまうだろう。

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[古文・原文]

256段

人の顔にとりわきてよしと見ゆる所は、たびごとに見れども、あなをかし、めづらしとこそおぼゆれ。絵など、あまたたび見れば、目も立たずかし。近う立てたる屏風(びょうぶ)の絵などは、いとめでたけれども、見も入れられず。人の容貌(かたち)は、をかしうこそあれ。にくげなる調度(ちょうど)の中にも、一つよき所の、まもらるるよ。見にくきも、さこそはあらめと思ふこそ、わびしけれ。

257段

古代の人の指貫(さしぬき)着たるこそ、いとたいだいしけれ。前にひきあてて、まづ裾を皆籠め入れて、腰はうち捨てて、衣(きぬ)の前を整へ果てて、腰をおよびて取るほどに、後ざまに手をさしやりて、猿の手結はれ(ゆわれ)たるやうに、ほとき立てるは、とみのことに出で立つべくも見えざめり。

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[現代語訳]

256段

人の顔で格別に良く見える所は、何度見てみても、まぁ綺麗なものである、珍しいほど綺麗だなと思われるものである。絵などは、何度も見ると、目も向かなくなる。身近に立ててある屏風の絵などは、とても素晴らしいけれど、見る気にもならなくなる。人の容貌というのは、面白いものである。憎たらしい道具立ての中でも、一つでも良い所があれば、見ていられるのである。醜い所も、そのようなものであるのだろうと思うと、情けないものだが。

257段

古風な人が指貫を着ける時の様子こそ、本当に困ってしまうものである。前に引き当てて、まず下着の裾をすっかり下に着籠めて、腰紐は放っておいて、着物の前を綺麗に整えてから、腰紐を手を延ばして取るので、後ろに手を回して、猿が手を縛られたような姿で、ふらふらして立っているのは、急場に準備して間に合うというようには見えないだろう。

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