13.陽成院 筑波嶺の〜 小倉百人一首

優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『陽成院の筑波嶺の〜』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

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鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

[和歌・読み方・現代語訳]

筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞ積もりて 淵となりぬる

陽成院(ようぜいいん)

つくばねの みねよりおつる みなのがわ こいぞつもりて ふちとなりぬる

筑波山の峰から流れ落ちてくる水無川(みなのがわ)の水が、積もり積もって深い淵となるように、あなたを思う恋心も積もり積もって深いものとなっている。

[解説・注釈]

陽成天皇(868〜949,在位876〜884)は、9才という若さで清和天皇から譲位された第57代天皇だが、勘気を起こして臣下を殺害したり三種の神器が収まっている神璽(しんじ)の箱を勝手に開けたりといった異常な無法が目立ったため、すぐに藤原基経によって退位を強いられたという。

母親は『二条后(にじょうのきさき)』と呼ばれた藤原高子(ふじわらのたかいこ)であるが、陽成天皇の歪んだ人格形成には複数の男性との関係を噂された浮気性の母・藤原高子の影響もあったのではないかと言われる。だが実際には、『後の摂関家』となる藤原氏の権力構造を築こうと考え始めていた藤原基経の謀略(幼帝の引きずり下ろし)だっただろう。

『伊勢物語』にもその名を覗かせる藤原高子は、若い時期には色男の在原業平(ありわらのなりひら)と浮き名を流し、晩年に至っても善祐という僧侶と逢瀬を重ねていたと伝えられる。陽成天皇(陽成院)は幼くして朝廷の都合で帝位に就けられ、家臣であるはずの藤原基経から引きずり落とされるという悲劇の天皇であるが、この歌はその『不遇・理不尽の怨念』を恋歌に転換したものとして詠むこともできる。

陽成天皇が光孝天皇の第三女・綏子(すいし)内親王に向けて贈った歌で、後に二人は結婚している。常陸国にある筑波嶺(筑波山)は、古代には春・秋に男女が集まって騒いで歌い、求愛をし合う行事である『歌垣(うたがき)』の舞台にもなっていたという。

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