『歎異抄』の第十条と現代語訳

“念仏信仰・他力本願・悪人正機”を中核とする正統な親鸞思想について説明された書物が『歎異抄(たんにしょう)』である。『歎異抄』の著者は晩年の親鸞の弟子である唯円(1222年-1289年)とされているが、日本仏教史における『歎異抄』の思想的価値を再発見したのは、明治期の浄土真宗僧侶(大谷派)の清沢満之(きよざわまんし)である。

『歎異抄(歎異鈔)』という書名は、親鸞の死後に浄土真宗の教団内で増加してきた異義・異端を嘆くという意味であり、親鸞が実子の善鸞を破門・義絶した『善鸞事件』の後に、唯円が親鸞から聞いた正統な教義の話をまとめたものとされている。『先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎く』ために、この書物は書かれたのである。

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金子大栄『歎異抄』(岩波文庫),梅原猛『歎異抄』(講談社学術文庫),暁烏敏『歎異抄講話』(講談社学術文庫)

[原文]

第十条

一。念仏には無義(むぎ)をもて義とす、不可称不可説不可思議(ふかしょう・ふかせつ・ふかしぎ)のゆへにとおほせさふらひき。そもそもかの御在生(ございしょう)のむかし、おなじくこころざしをして、あゆみを遼遠(りょうえん)の洛陽にはげまし、信をひとつにして、心を当来の報土(ほうど)にかけしともがらは、同時に御意趣(ごいしゅ)をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念仏まふさるる老若そのかずをしらずおはしますなかに、上人(しょうにん)のおほせにあらざる異義どもを、近来はおほくおほせられあふてさふらうよし、つたへうけたまはる、いはれなき条々(じょうじょう)の子細のこと。

[現代語訳]

念仏というのは、人間の分別・理解力を超えているというのが正しい考え方で、自分自身のはからいで唱えることができず、言葉で説明することもできないという不可思議なものですから(人の理性ではまともに理解できないのです)と親鸞上人がおっしゃられた。

そもそも親鸞上人が存命であった昔、同じ信心の志を持って、遥々(はるばる)遠い京都の地まで足を運び、信心を一つにした人たちは、その気持ちを未来の極楽浄土に寄せていました。その人たちは私と同時に親鸞上人の教えの趣旨を聞いたのですが、その人たちに従って念仏を唱えている人々は、老若が混じっていて大勢の人がいらっしゃいます。その中には、親鸞上人のお言葉にはない異端の教えを語っておられる人も多くいるとか伝え聞いておりますので、その教義が間違っているということの詳しい理由をお話しましょう。

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