ドイツのフランクフルトで生まれてアメリカに亡命・帰化したエーリッヒ・フロム(Erich Fromm, 1900-1980)は、社会心理学者としての顔も持つユダヤ人の精神分析家である。エーリッヒ・フロムはマルクス主義(共産主義)の左翼的な政治思想や理想社会建築に傾倒していたこともあり、『新フロイト派・フロイト左派』に分類されている。精神分析の理論の射程を『個人の精神病理・心理的問題』から『社会全体の構造・現象』にまで拡張した功績でも知られ、ナチスドイツのファシズム(全体主義)を引き起こした大衆の不可解な心理的力動を著書『自由からの逃走』で詳細に分析している。
E.フロムは頑固で気難しい父親と気分が沈みやすく不安になりやすい母親との間に、一人息子として誕生した。初めはフランクフルト大学に入学したが、1年後にハイデルベルク大学に転学して、更にミュンヘン大学でも社会学・心理学・哲学を精力的に学んだ秀才であった。1922年に、社会学の創始者マックス・ヴェーバーの弟であるアルフレッド・ウェーバーやカール・ヤスパース、ハインリヒ・リッケルトといった当時名だたる哲学者に指導を受けて、わずか22歳という若さで哲学博士号の学位を取得した。1926年には、最初の妻となる女性精神分析家のフリーダ・フロム=ライヒマンと結婚している。
E.フロムが本格的に精神医学と精神分析を学習しはじめたのは1925年からであり、1931年にベルリン精神分析研究所を卒業してフランクフルト大学の精神分析研究所で講師として採用された。1933年にヒトラー率いるナチスが政権を掌握してユダヤ人弾圧の政策を始めると、ユダヤ人であったE.フロムはスイス・ジュネーヴに逃れたが、アメリカのシカゴ精神分析研究所からも招聘を受けてフランクフルト学派の主要メンバーと一緒に渡米する。ナチスの脅威が周辺諸国にも拡大した1934年には、アメリカに亡命していたフロムはニューヨークで精神分析クリニックを開業し、コロンビア大学の教授として就任するなど、精神分析家としての足場を固めていった。
第二次世界大戦が終結した後の1946年には、ウィリアム・アランソン・ホワイト研究所という精神分析やメンタルヘルスに関係する研究所の設立に協力している。1949年にはメキシコのメキシコシティへ移住して、1965年までメキシコ国立自治大学の教授を務めた。メキシコ国立自治大学の仕事と並行して、アメリカでも1957年から1961年までミシガン州立大学の教授を、1962年から1974年まではニューヨーク大学の教授を務めるという多忙ぶりであり、精神分析の研究者・教育者としてのキャリアは充実を極めた。
その後、1974年までメキシコ心理分析研究所 (Instituto Mexicano de Psicoana'lisis) でも教鞭を取ったが、退職した1974年にスイスのティチーノ州ムラルトに移住することを決めて1980年にはスイスのムラルトの自宅で死去している。
エーリッヒ・フロムはジークムント・フロイトが主導する『正統派精神分析(自我心理学)』を、自然科学モデルの生物学主義に偏りすぎていて人間の精神活動に与える『社会環境・政治情勢などの社会文化的要因』を切り捨てていると批判した。E.フロムはハリー・スタック・サリヴァンやカレン・ホーナイ、C.トンプソン、G.ジルボーグ、フリーダ・フロム=ライヒマン(最初の妻)らと共に『新フロイト派』に分類され、万人の自由と平等に基づく理想社会を建設しようとするマルクス主義の影響を強く受けたE.フロムは『フロイト左派』や『社会的精神分析学』と呼ばれることも多い。
エーリッヒ・フロムは、S.フロイトの生物学主義やリビドー発達論(リビドーによる病因論)を批判し、クライエントの社会文化的要因を重視しながら神経症の病因や治療法を探す『非リビドー派・文化派』であった。E.フロムは精神分析の知見や対象を『個人の精神病理』だけではなく『社会現象・政治情勢の全体』にまで拡張した社会派・文化派の精神分析家であり、社会学・歴史学・宗教学・文化人類学の該博な知識を活かして、人間の精神現象や行動が社会構造(政治状況)とどのように関係しているのかを明らかにしようとした。
E.フロムは『人間の心理・行動(個人的要因)』と『社会構造の変化(社会文化的要因)』との相関を分析して、代表作である『自由からの逃走(1941年)』や権威主義的パーソナリティの問題を扱った『人間における自由(1947年)』を書いている。『自由からの逃走』は、ヒトラー総統が扇動するナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)による『ナチズム(ファシズム)』の独裁政治を経験したE.フロムが、どうして自由と民主主義、倫理を求めるはずの理性を持つ人間が、ナチスのようなファシズム(全体主義)に従属して無批判に(機械的に)残酷な行為をしてしまったのかを明らかにしようとした著作である。
E.フロムは歴史展開の必然として『人間社会における自由』は増大していくが、有機体的存在である人間は自らの『自己実現・自己成長の希望』が完全に阻害されたと思う時に、精神的危機に陥って『権威への従属・自由(自己決定)の放棄』によって自分の無力感や絶望感を隠蔽しようとすると考えた。フロムはファシズムを生み出す人間の心理的性格的要因として『権威主義的パーソナリティ』の存在を明らかにし、自由を手に入れたはずの人間が自らその自由を手放すはずなどないという『従来の常識・前提』を論理的な説明で覆したのである。
自分の存在価値が揺らいで現状からの自己実現が不可能になると、人間は自分が自由な状態であっても仕方がないという精神的危機に陥り、『従属すべき権威(自分よりも大きな存在)』や『攻撃すべき対象(自分に危害・損失をもたらしそうな存在)』を求め始める。精神的危機に陥った人間は、攻撃的なサディズムや自虐的なマゾヒズムの異常心理に耽溺しやすくなり、更に『自己の自由(自己選択とその責任)』を放棄して『権威への従属(何もしなくても導いてくれるという安心感)』に向かう権威主義に魅力を感じるようになる。大勢の人が自分の自由と責任を放棄してより大きな権威(権力)に依存しようとし始めることで、『全体主義(ファシズム)』の危険性が高まっていくのである。
E.フロムはファシズム(全体主義)の心理的起源を、『自由な近代人』が自己実現の挫折や社会環境の閉塞感によって落ち込みやすい『孤独感・無力感・虚無感(空虚感)』に求めたのである。つまり、大勢の人が『自分には自由があってもそれを生かせないので意味がない・自由な選択の重圧から逃れて権威に頼りたい・自分が自分自身であるという現実を忘れたい』と思う時に、一挙にファシズム(全体主義)の流れに飛び込む人間(自由から逃走していく人間)が増えるというのがフロムの『自由からの逃走』におけるファシズム(全体主義)の心理的起源の分析になっている。
E.フロムは哲学者のバールーフ・スピノザがいう『幸福は徳の証である』を行動原理にしていたが、人間が自由からの逃走によってファシズムに協力しないようにするためには、S.フロイトが常々言っていた『働くこと(生産的な生活)』と『愛すること(倫理的な人格)』が重要だとも考えていた。フロムが考える『幸福に至る道』とは、他者の幸福と成長を共感的に願うような人道主義的な倫理の実践(愛すること)であり、自分自身の自己成長や存在意義を確信するための生産的な生活様式の確立(働くこと)だったのである。
E.フロムは『愛するということ(1956年)』で、人間は文明や経済を発展させた進化のプロセスで『自然との原始的な一体感を伴う絆』を失ってしまい、『自然(世界)からの分離』によって慢性的な孤独感や不安感の恐れに苦しめられるようになったが、その根本的な実存の危機を解決する唯一とも言える手段が『愛』なのだという。『愛』は愛されることによっても愛することによっても人間を幸福にしてくれるが、フロムは『受動的に愛されること』をただ待つのではなく『能動的に愛すること』を技術的に習得することで、『配慮・責任・尊敬・知』の要素を持つ本当の愛を体感しやすくなるとした。
『世界(自然)からの分離』による孤独感や不安感に耐え切れない弱さを感じる時に、人間は自分の自由を放棄して権威に従属してその道具になることを望む『マゾヒズム』や他者を道具的に支配することで自分の影響力の拡大を図ろうとする『ファシズム』といった異常心理を生じやすくなる。その結果、『自由と責任の放棄・権威への従属・従属の安心感』に囚われる時に、社会が個人の自由を抑圧するファシズム(全体主義)に支配されやすくなると憂慮した。
E.フロムは、生の本能と死の本能があるとしたフロイトの『本能二元論』のように、人間には生を志向して欲望する『バイオフィリア』と死を志向して欲望する『ネクロフィリア』の二つがあると定義した。
ネクロフィリアの最大の特徴は、自分自身の孤独感や無力感に耐え切れなくなった個人の『他者との共生』を放棄した『他者の破壊・排除』を望むことにあるが、フロムはネクロフィリアに魅了された典型的な人物として『力の崇拝・他者の死(排除)の願望・法秩序の冷酷な信奉者・死の憧れ』などの特徴を示したアドルフ・ヒトラーを上げている。E.フロムは経済至上主義や効率性の優先に傾いて、人間の倫理性・情緒性・自己実現に基づく存在価値が軽視されやすい『近代社会』は、各人の社会経済的要因による絶望感や閉塞感によってネクロフィリアに傾きやすいリスクを持った社会だと警鐘を鳴らしている。
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