このウェブページでは、『史記 万石・張叔列伝 第四十三』の2について現代語訳を紹介しています。
参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)
[『史記 万石・張叔列伝 第四十三』のエピソードの現代語訳:2]
元狩元年(げんしゅがんねん、前122年)、帝は太子を立て、群臣の中から太傅(たいふ)とすべき者を選んだ。その結果、慶は沛郡(はいぐん)の太守から太子太傅となった。そして、七年後に遷って御史大夫となった。元鼎五年(げんていごねん、前112年)の秋に、丞相(趙周)が罪を犯して免ぜられ、御史に次のような詔(みことのり)が出された。
「万石君は先帝が尊重した人物であり子孫は孝である。よって、御史大夫慶を丞相に任じ、牧丘侯(ぼくきゅうこう)に封ずる」
当時、漢は南のかた両越(りょうえつ、ビン越と南越)を誅滅し、東の朝鮮を攻撃して、北の匈奴を追討し、西の大宛(中央アジアの国)を征伐するなど、中国は多事だった。また天子は海内(かいだい)を巡幸し、上古の神祠を修め、封禅(ほうぜん)を行って礼楽を興し、ために朝廷の財用は乏しくなっていた。
そこで桑弘羊(そうこうよう)らは富国につとめ、王温舒(おうおんじょ)の一党は法は峻刻(しゅんこく)にして児寛(げいかん)らは学問を推挙してそれぞれ九卿にのぼり、代わる代わる進出しては政事をもっぱらにして、政事は丞相の決裁を経ないありさまだった。
丞相はただ重厚で慎み深いだけで丞相の地位にあった9年の間、政事上の是正も進言もできなかった。かつて、帝の近臣の所忠(しょちゅう)と九卿の感宣(かんせん)らの罪の糾弾方法を奏請しようとしたが、力が及ばず彼らを罪に服させることができず、逆に誣告(ぶこく)の罪を受けて罰金を払わなければならなかった。
元封4年(げんぷう、前104年)には、関東の流民は二百万、無籍ものは百四十万にもなった。公卿たちは協議して流民を辺境に移して流罪の扱いをしたいと奏請した。
帝は、丞相は年老いており慎み深い一方なので、そのような協議にあずかったはずはない――と判断して丞相に休暇を賜い、御史大夫以下の協議に参加して奏請した者たちを取り調べさせた。
丞相はその職に任えないのを慚じて(はじて)次のように上書した。
「私は幸いにも丞相を務めさせていただいております。しかし、老衰して才能乏しき身で補弼(ほひつ)の任に当たっておりますため、城郭(まち)・倉庫(くら)は空しくなり、民は多く流浪逃亡いたしております。その罪はまさに斬罪に当たります。ところが、陛下には私を不憫と思し召されて、法刑をお加えになりません。どうか、私が丞相・侯の印をおかえしし、辞職して家郷に帰り、せめて賢者昇進の路を妨げないようにすることをお許しください」
すると天子は、書面で次のように慶を責めた。
「倉はすでに空しく、民は貧窮して流浪逃亡している。しかるに、そなたは流民を辺境に移そうと請い、ために民心は動揺して不安に戦いている。このような危急の事態を招きながら辞職しようとしている。お前はいったい誰に危難の責任を押しつけようとしているのか?」
慶は非常に慚じ入って遂にまた政務を執るようになった。
慶はまったく忠実に法を守って、物事に丁寧で慎み深かった。しかし、万民のために主張する経綸(けいりん)がなかった。その後3年余り経って、太初2年(たいしょ、前103年)に、丞相慶は死んだ。恬侯(てんこう)と諡(おくりな)された。
慶の中子を徳といい、慶に目をかけられていたので帝は徳を後嗣とし、慶に代えて侯とした。徳は後に太常となったが、法に触れて死刑になりかけたところ、罰金を払って罪を贖い、職を免ぜられて庶民になった。慶が丞相であった頃、子孫たちは官吏になり、二千石の官にまでのぼった者が13人もいた。
しかし、慶の死後、次第に罪を受けて官を去り、一族の孝行・謹直の風はますます衰えた。
建陵侯衛綰(けんりょうこう・えいわん)は代の大陵(だいりょう、山西省)の人である。車の曲乗りに優れていて郎に取り立てられ、孝文帝に仕えた。年功を積み上げて遷って中郎将になった。
重厚・謹直で邪念はなかった。孝景帝がまだ太子だったとき、孝文帝の左右の者を召して酒宴を開いたことがあったが、綰は孝文帝に忠誠を捧げるあまり、病気と称して行かなかった。孝文帝が崩じようとするとき、孝景帝に委嘱して言った。
「綰は有徳者である。これを厚遇するように」
孝文帝が崩じて孝景帝が即位したが、一年余にわたって綰に別段の沙汰をしなかった。綰は毎日慎んで職務に励んだ。ある時、孝景帝は上林苑(じょうりんえん)に行幸したが、中郎将に詔して陪乗させ帰還してから問うた。
「そなたは、なぜ陪乗させてもらったのか分かるか?」
綰は答えた。
「私は車の係から、幸いにも年功によって中郎将まで昇進させていただきました。本日、なぜ陪乗の栄に浴したのかが分かりません」
帝はさらに問うた。
「わしがまだ太子だったときにお前を招いたことがあるが、お前は来ようとしなかった。あれはなぜなのか?」
「恐れながら申し上げます。あの時は、本当に病気でございました」
そこで、帝が綰に剣を下賜しようとすると綰は言った。
「先帝は私に剣をご下賜され、それは六剣もございます。これ以上はと存じますので、恐れ多いことではございますが詔を奉ずるわけにはいきません」
「剣というものは人が好んで贈答用の品にするものだが、お前は先帝から拝領した剣を今まで持ち続けているのか?」
「そのまま、全て所有しております」
帝がその六剣を取り寄せさせてみると、剣は拝領したままの状態で大切に保存されていて、一度も佩剣した跡がなかった。
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