『史記 張釈之・馮唐列伝 第四十二』の現代語訳:3

このウェブページでは、『史記 張釈之・馮唐列伝 第四十二』の3について現代語訳を紹介しています。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 張釈之・馮唐列伝 第四十二』のエピソードの現代語訳:3]

馮唐(ふうとう)はその祖父は趙人(ちょうひと)であった。父の代になって移住して漢の時代になってから安陵(あんりょう、陝西省)に移り住んだ。馮唐は親孝行で知られていて、中郎署(ちゅうろうしょ)の署長になって孝文帝に仕えた。帝が車に乗って偶然郎署に立ち寄った際に、唐に問うた。

「老人はどうして郎官になったのか?家はどこにあるのか?」

唐が詳しくありのままを答えると帝は言った。

「私が代にいたとき、尚食監(しょうしかん、食物を供する官職)の高去(こうきょ)がしばしば趙の将軍・李斉(りせい)が賢明で鉅鹿(きょろく、河北省)城下でいかに戦ったのかを語ってくれた。今でも食事の度に心が鉅鹿にまで飛ぶのを抑えることができない。老人も李斉を知っているのか?」

「そうはいいましても李斉はやはり、廉頗・李牧(れんぱ・りぼく)の名将ぶりには及びません」

「なぜなのか?」

「私の祖父は趙にいたとき、官の卒将でして李牧と仲が良かったのです。また父は元代の宰相であり、趙の将軍・李斉と親しくしておりました。そのため、二人の人柄をよく知っているという次第です」

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帝は廉頗・李牧の人柄を聞き終わると、とても喜んで股を叩いて言った。

「あぁ、私だけが廉頗・李牧のような人物を配下にすることができないのだ。今、彼らのような名将が私の将軍になってくれていたら、私はどうして匈奴のことなど心配する必要があっただろうか」

唐は言った。

「恐れながら申し上げます。陛下は廉頗・李牧を配下にされましても、十分に使いことなすことはできないでしょう」

帝は怒って席を蹴って宮中に帰ったが、しばらくすると唐を召して責めて言った。

「お前はどうして、衆人の中で私を辱めたのだ。人のいない所もないわけではないのに」

唐は謝罪して言った。

「田舎者のこととて、遠慮すべきことを知らず、とても失礼なことを申し上げてしまいました」

当時、匈奴があらたに大挙して朝那(ちょうな、甘粛省)に侵入して北地郡(ほくちぐん)の都尉・孫仰(そんこう)を殺した。帝は匈奴の侵攻に心を痛められて遂にまた唐に問うた。

「そなたはどうして、私は廉頗・李牧を使いこなせないことが分かるのか?」

「聞くところによりますと、昔、王者が将軍を派遣するときには自ら跪いて車の甑(こしき)を押し進めてやりながら、『都城の内のことは私が裁く。都城の外のことは将軍が裁け』と申し渡したといいます。その結果、軍功・授爵・賞賜はみんな将軍が都の外で決定し、帰還してからその内容を帝に奏上しました。これは空言ではありません。

私の祖父も『李牧が趙の将軍として辺境に屯営すると軍中の市場の税金は、すべて意のままに使って軍士を饗応した。賞賜は外で決定して朝廷は干渉しなかった。すなわち趙の朝廷は一切すべてを彼に委任して、成功の結果だけを求めたのです。

それ故、李牧はその智能の限りを尽くすことができました。そして選り抜きの戦車千三百乗、コウ騎(弓矢を使う騎兵)一万三千、百金の士・七十万の勢力を築き上げました。

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だからこそ、北は単于(ぜんう、匈奴の王)を追い払い、東胡を破り、譚林(たんりん、東胡の国)を滅ぼし、西は強い秦を抑えて、南は韓・魏を支えられたのです。あの当時、趙はもう少しで天下に覇を唱えようとするほどの情況でした。

しかしその後、たまたま趙王・遷(せん)が即位しました。その母は昌女(うたいめ)でした。王遷は即位すると、郭開(かくかい)の讒言(ざんげん)を聞き入れて、遂に李牧を誅殺してしまい、顔聚(がんしゅう)をこれに代えました。

そのため軍は敗れて、士卒は逃亡し、趙王は秦に捕えられ国は滅びたのです』と申していました。

今、ひそかに聞くところによりますと、魏尚(ぎしょう)が雲中郎(うんちゅうろう、山西省の長城付近)の太守になってから、軍中の市場の税金はすべて士卒の饗応に使い、自分に対する私養銭(しようせん)で五日に一度牛をつぶして賓客・軍吏・舎人を饗応したので、匈奴は憚って遠くにまで去り、雲中の要塞には近づきません。

過去に一度だけ侵入したことがありますが、その時、魏尚は車騎を率いてこれを撃ち、殺した敵の数が非常に多かったということであります。そもそも魏尚の士卒はみんな庶民の子であり、田畑の間から出てきて従軍しているのです。

それがどうして、尺籍(せきせき、斬首の功を示す一尺の板)や伍符(ごふ、五人の兵士の連帯誓約書)のことなど知っているでしょうか。一日中奮戦して、敵の首を斬ったり捕虜にしたりしてその功績を軍監府に上申するのですが、その文中にたった一語でも不適切なものがあると、文官が法に基づいて糾弾しその功に対する恩賞も無くなってしまいます。

しかも役人が法の名のもとに主張すると、それが必ず通るのです。私は愚か者ではありますが、これでは陛下の法はあまりにも明らかであり、賞はあまりにも軽くて、罰はあまりにも重いと思わざるを得ません。かつまた雲中郡の太守・魏尚が部下の功を上申した際、首級・捕虜の数を6つ間違えただけのことで、陛下は彼を刑吏の元にお送りになり、その爵を削って懲役刑になされました。

以上のことを総合してみると、陛下は廉頗・李牧を配下にしても使いこなすことはできないでしょう。私は誠に愚か者で、御意に障ることばかりを申し上げました。死罪に相当するでしょう」

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文帝は喜んだ。そして即日、馮唐に命じて勅使の印である節を持っていって、魏尚を釈放させて再び雲中郡の太守とした。また馮唐を車騎都尉に任命して、中尉配下の戦車隊の軍士と郡国の戦車隊の軍士の指揮を取らせた。

七年の後、孝景帝が即位すると唐を楚の宰相にしたが、唐はやがて免ぜられた。孝武帝が即位して天下に賢良の士を求めたとき、馮唐も推挙された。しかしその時には、唐は九十余歳であり再び官に就くことはできなかったので、唐の子の馮遂(ふうすい)を郎とした。

遂は字を王孫といい、これまた奇士であり私(司馬遷)と仲の良い人物であった。

太史公曰く――張季(張釈之)が有徳者について論じたこと、法を守って帝の意におもねらなかったこと、また馮公(馮唐)が将帥たるもののあり方について論じたことは誠に味わいがある。古語に「その人を知らなければ、その友を視よ(みよ)」とあるが、張季・馮公の二人が議論したところは記録して朝廷に保存しておくべきである。

また『書経』(洪範篇)には、「一方に偏らず、一部に党(くみ)せずして、王道は蕩々(とうとう)として広大である。一部に党せず、一方に偏らずして、王道は便々として公平である」とあるが、張季・馮公はこれに近い。

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