このウェブページでは、『史記 万石・張叔列伝 第四十三』の3について現代語訳を紹介しています。
参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)
[『史記 万石・張叔列伝 第四十三』のエピソードの現代語訳:3]
また、綰(わん)は部下の郎官に罪があるといつも代わりにその罪を引き受けていた。他の将と争うことはなく功があれば常に他の将に譲った。帝はその廉潔・忠実で私欲がないことを見て、綰を河間王(かかんおう、孝景帝の子)の太傅(たいふ)に任じた。
呉・楚が謀反を起こすと帝は綰に詔を出して将軍に任命し、河間の兵を率いて呉・楚を撃たせた。功があったので綰を中尉に任じた。それから三年後、孝景帝の前6年(前151年)に軍功によって綰を建陵侯(けんりょうこう)に封じた。その翌年、帝は太子(栗太子)を廃嫡して、その舅の栗卿らを誅殺したが、その時に帝は綰は有徳者であるから栗氏一族を誅殺することが忍びないだろうと思って、綰に休暇を与えて家に帰した。
至都(しつと)に命じて、栗氏を糾問して逮捕させたのである。その後、膠東王(こうとうおう)を立てて太子(後の孝武帝)にしてから、綰を召して太子太傅に任じた。綰はそれから久しくして御史大夫に遷り、さらに5年後、桃侯劉舎(とうこう・りゅうしゃ)に代わって丞相となった。
朝廷で政事について奏上するとき、職分に遵って奏上すべきことだけを奏上した。こうして、仕官の初めから丞相時代まで、綰には取り立てて言うほどのことは無かった。しかし、天子は綰は敦厚(とんこう)な人物で若い君主の宰相には適していると考え、これを尊重して非常に多くの金品の賞賜を与えた。
綰が丞相になってから3年、孝景帝が崩じて今上(孝武帝)が即位された。建元年間(前140~135年)にかつて孝景帝が病気をしている時、諸官の囚人たちには冤罪を受けたものが多かったことが問題となり、丞相の職に適任ではないとして綰を罷免した。その後、綰は死んだ。
その子の信が代わって後を嗣いだが、酎金(ちゅうきん、諸侯への献金)が不十分で法に反したとされ、侯の地位を失った。塞侯直不疑(さいこう・ちょくふぎ)は南陽(なんよう、河南省)の人である。郎に任ぜられて孝文帝に仕えた。その同じ宿舎に休暇を取った者がいて、誤って同舎の郎の金を持ち出してしまった。やがてその金の持ち主が気づいて、不疑が盗んだのではないかと疑った。
不疑は確かに自分が盗んだと誤って、金を買って弁償した。後で休暇を取った者が帰ってきて金を返したので、先に金を失った郎は大いに慚じ入った(はじいった)。この事件で不疑は有徳者であるとして称えられた。孝文帝は不疑を称えて挙用した。不疑は次第に昇進して中大夫令(衛尉)となった。朝廷のある顕官が誹謗して言った。
「不疑の容貌は非常に美しい。しかし、嫂(あによめ)と密通しているのはどうしようもないことである。」
不疑はそれを聞くと、「私には兄などいないのに」とつぶやいたが、とうとう自分からは弁明しなかった。
呉・楚が謀反したとき、不疑は二千石の身分で兵を率いてこれを撃った。
孝景帝の後元年(前143年)、不疑は御史大夫に任じられた。天子は呉・楚の謀反のときの論功を行って、不疑を塞侯(さいこう)に封じた。しかし、今上の建元年間に丞相の綰(わん)と共に過失を犯してしまい官を罷免された。
不疑は老子の説を学んでいて官職に就くと、職務上のことは前任者が行った通りに行って軽々に改変はしなかった。ひたすら自分の官吏としての仕事ぶりを人に知られることを恐れ、名声を上げることを好まなかった。その結果、有徳者として称えられたのである。不疑が死ぬと、その子の相如(しょうじょ)が代わって後を嗣いだ。孫の望は酎金のことで法に触れて、侯の地位を失った。
郎中令・周文(しゅうぶん)は名を仁といい、その祖先はもと任城(山東省)の人である。医術に優れているということで帝に謁見した。孝景帝が太子であった時に、その舎人に任じられ功を積んで次第に昇進し、孝文帝の時代に太中大夫となった。孝景帝が即位したばかりの頃、仁を郎中令に任じた。
仁の人柄は慎重で口が重く人の秘密を漏らすことはなく、常につぎはぎした粗末な衣服を着て、小便で汚れたももひきをはいていた。わざと不潔にしていたのである。そのため、孝景帝に寵愛されて寝室にも出入りし、後宮でみだらな演劇が行われるときには、(不潔にしていたため女性関係の疑いがない)仁は常に帝の傍らに侍していた。
孝景帝が崩じても仁はなお郎中令だったが、遂に何事も秘密を漏らさなかった。帝は時折、臣下の人物を問うたが、仁は、
「陛下ご自身でお考えくださいませ」と言うだけで、人を誹ったりもしなかった。
このため、孝景帝は二度も仁の家に行幸した。後、家は陽陵(ようりょう、陝西省)に移した。帝からの下賜品はとても多かったが、常に辞退して受け取ることはなかった。諸侯・群臣からの贈り物も最後まで受け取らなかった。
今上が即位すると、先帝の寵臣だということで尊重されたが、仁は病気になって罷免され、二千石の俸禄のまま故郷に隠退した。子孫はみな大官にまで昇った。
御史大夫・張叔(ちょうしゅく)は名を欧といい、安丘侯説(あんきゅうこう・えつ)の庶子である。孝文帝のとき、刑名の学(法家の思想)を修めているということで太子に仕えた。しかし、欧は刑名の学を修めたとはいっても、その人柄は有徳者であった。
孝景帝の時代に尊重されてかつて九卿の地位にまで昇ったこともある。今上の元光4年(前131年)に、韓安国が免ぜられて詔して欧を御史大夫に任じた。欧は官吏になってから人の罪を取り調べしようなどと言ったことは一度もなく、もっぱら本物の有徳者として官職をつとめた。
属官たちも彼を有徳者と認めて、決してひどく欺こうなどとはしなかった。訴状を奉る場合はよく事件を調べて、却下してよいものは却下し、却下できないものはやむを得ず涙を流しながら、顔を背けてその措置をした。
欧の人を愛することはこのようであった。年老いて病篤く、免官を願い出ると、天子は特別に恩沢に溢れた辞令を与えて、官をやめさせ上大夫の俸禄のまま家に隠退させた。欧は後に陽陵に居宅を構えた。子孫はみな大官に昇った。
太史公曰く――
仲尼(ちゅうじ、孔子)の言葉に「君子たるものは口不調法にして実行するに機敏なれ」(論語の里仁篇)とあるが、これは万石・建陵・張叔らのことを言ったものなのだろうか。だから彼らの教化は厳正というわけではないが、成果が出て施政は苛酷にならずよく治まったのである。塞侯は微妙な技巧を用いて、周文は追従をこととして、世の君子に攻撃されている。その所為が佞(へつらい)に近かったからだが、この二人も篤行の君子と言えるだろう。
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