『史記 田叔列伝 第四十四』の現代語訳:1

このウェブページでは、『史記 田叔列伝 第四十四』の1について現代語訳を紹介しています。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 田叔列伝 第四十四』のエピソードの現代語訳:1]

田叔(でんしゅく)は趙のケイ城(けいじょう、河北省)の人で、その祖先は斉の田氏の子孫である。叔は剣術を好んで黄帝・老子の学を楽巨公(がくきょこう)のもとで学んだ。叔の人柄は深刻・廉潔であり自分でその人柄を気に入っていて、先輩たちと好んで交際した。

趙の国人が彼を趙の宰相・趙午(ちょうご)に推薦して、午が趙王・張敖(ちょうごう)に推薦した。趙王は彼を郎中に任じた。それから数年経ったが、叔は親切・正直・廉潔・公平だったので、趙王は彼を賢人と認めた。しかしまだ昇進させない内に、たまたま陳稀(ちんき)が代で漢に対して謀反を起こした。

漢の七年(前200年)、高祖は親征して陳稀を誅して趙に立ち寄った。趙王・張敖は自ら食卓を運んで食事を勧め、非常に恭しく礼を尽くして高祖を接待した。しかし、高祖は脚を投げ出したまま席(むしろ)に坐して趙王を罵った。この時、趙の宰相貫高(かんこう)・趙午ら数十人はみな怒って趙王に言った。

「王が陛下にお仕えなさる態度は、礼が備わっています。しかし、陛下の王に対する処遇は不適切なものであります。どうか我々が反乱を起こすことをお許しください。」

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趙王は指を噛んで血を出し、誓って言った。

「我が父(張耳)は国を失ったのだ。あの時、もし陛下がおられなかったら我々は死んで葬られず、死体から虫が這い出していたことだろう。あなた達はどうしてそのようなことを言うのか。二度と口に出してはならない。」

そこで貫高らは、

「王は元々有徳者であり、徳に背くことはできない。」

と言って、遂にひそかに相談して高祖を弑殺(しいさつ)しようとした。たまたま事は発覚し、漢は詔を下して趙王および謀反を図った群臣を捕えた。こうして、趙午らはみな自殺したが、貫高だけは縛についた。この時、漢は詔を下して、

「趙の人であえて趙王に随って来る者があれば、その罪は三族に及ぶであろう。」と布れた(ふれた)。

しかし、孟舒(もうじょ)・田叔ら十余人だけは、赤い衣服を着用し、自ら頭髪を剃り首かせをはめて、奴隷の風を装って王家の奴僕と称して随った。

趙王・敖が長安に着いてから貫高らの謀事が明らかになり敖は釈放してもらえたが、王位を奪われて宣平侯(せんぺいこう)となった。そこで敖は帝の御前に進み出て、田叔ら十余人について言上した。

帝はそれらを全て召見して共に語ってみたが、漢の廷臣で彼らの右に出る者はなかった。帝は喜んで彼ら全員を、郡守や諸侯の宰相に任じた。

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田叔が漢中郡の太守になってから十余年、たまたま高后が崩じて呂氏一族が反乱を起こした。大臣たちはこれを誅滅して孝文帝を立てた。孝文帝は即位すると田叔を召して問うた。

「そなたは誰が天下の有徳者か知っているか?」

「私ごときにどうして分かるでしょうか。」

「そなたが有徳者だ。心得ておくが良い。」

叔は頓首して言った。

「元の雲中郡の太守の孟舒こそ有徳者です。」

この時、孟舒は匈奴が大挙して漢の辺塞に侵入して略奪を行い、それが雲中郡においてもっとも甚だしかった件で免官されていた。帝は言った。

「先帝は孟舒を十余年間も雲中郡に太守として置かれた。しかし、匈奴が一度侵入すると孟舒は堅守することができず、いわれもなく士卒の戦死者は数百人にのぼった。有徳者は本来、人を殺したりするだろうか。そなたはどのような点で孟舒こそ有徳者だというのか。」

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田叔は額づいて(ぬかづいて)、つつしんで答えた。

「今おおせられました点がそのまま孟舒が有徳者である所以(ゆえん)なのです。そもそも、貫高らが謀反を企んだとき、陛下は明詔を下されて、『趙の人であえて趙王に随ってくるものがあれば、その罪は三族に及ぶであろう』とおおせられました。しかし、孟舒は自ら頭髪を剃り首かせをはめて、趙王敖のいますところに随い、趙王のために一身を投げ出そうとしたわけです。あの時、どうして自ら雲中郡の太守になることなど思い及んだでしょうか。

また漢と楚は攻防を繰り返し士卒は疲弊いたしました。匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)は新たな北方の蛮族(月氏)を服属させ、来襲して我が国の辺境を害したのです。孟舒は士卒が疲弊していることを知っており、戦いを命ずるに忍びませんでした。しかし、士卒が争って城壁を守り、敵に対して討ち死にした状態は、子が父のために犠牲になり、弟が兄のために犠牲になるようでありました。

ですから、死者は数百人にのぼったのです。孟舒が殊更に部下を駆り立てて戦わせたのでは断じてありません。これこそ、孟舒が有徳者である所以であります。」

そこで帝は、

「まことに賢人だ、孟舒は」と言って、再び孟舒を召して雲中郡の太守とした。それから数年後、叔は法に触れて官を失った。

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