『史記 田叔列伝 第四十四』の現代語訳:2

このウェブページでは、『史記 田叔列伝 第四十四』の2について現代語訳を紹介しています。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 田叔列伝 第四十四』のエピソードの現代語訳:2]

梁(りょう)の孝王が人に命じて、元の呉の宰相・袁央(えんおう)を殺害させた。孝景帝(こうけいてい)は田叔(でんしゅく)を召して梁のこの件を取り調べさせた。田叔はつぶさに実情を突き止めて帰還して報告した。孝景帝は言った。

「梁にはこの事実があるのか」

「恐れながら申し上げます。その事実はございます。」

「どんな仔細か?」

「陛下には梁の件を問題になさらず、黙ってお見過ごしください。」

「なぜそうすべきなのか?」

「今、梁王が誅せられないと、漢の法が施行されていないということになってしまいます。もし法に伏せられれば太后はご心痛のあまり、食事をされても美味しいとは思われず、おやすみになられても安らかにお眠りになることはできないでしょう。その結果、陛下がご憂慮あそばされることになります。」

孝景帝は大いに叔を賢人と認めて魯(魯王は孝景帝の子の共王)の宰相に任じた。

田叔が宰相として魯に赴任したはじめ、魯の民で王が自分たちの財物を取り上げてしまったと訴える者が百余人もあった。田叔はそのうちの主だった者二十人を捕えて、おのおの笞五十の刑に処し、残りの者はおのおの二十ずつ手で殴りつけて怒って言った。

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「王はお前らの主君ではないのか?どうしてその主君について自分から申し立てたりするのか?」

魯王はこれを聞いて大いに慚じ入り(はじいり)、中府(王の財物の蔵)の金銭を出して、宰相を通じて弁償させようとした。すると宰相は言った。

「王がご自身で奪い取られて宰相に弁償を命ぜられるのでは、王が悪を行われて宰相が善を行うことになります。宰相としましては弁償に関わりたくないのです。」

そこで王は自分ですべて弁償した。

魯王は狩猟を好んだ。宰相はいつもお供をして御苑の中に入った。王はその度に宰相を休ませようとして館舎にとどめたが、宰相はいつも外に出て夜天に坐し、王を館舎の外で待っていた。

王はしばしば使いをやって、宰相に休息するように告げたが、宰相は結局、館舎の中で休もうとせずに言った。

「わが王は御苑の中で日や風にお身体をさらしておられる。私だけがどうして館舎の中で休んでいられるでしょうか。」

魯王はこうしたわけで、あまり出遊しなくなった。数年経って、叔は現役の宰相のまま死んだ。魯では祭祀料として百金を遺族に送ろうとしたが、末子の仁はそれを受け取らずに言った。

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「百金によって亡き父の名誉を傷つけたくはありません。」

仁は壮健だったので衛将軍(衛青)の舎人となり、しばしば将軍に従って匈奴を撃った。衛将軍が仁を推薦したので、仁は郎中に任ぜられた。

数年経つと俸禄二千石で丞相の長史に進んだが免官された。その後、帝(孝武帝)は仁に命じて、三河(河南・河東・河内の三郡)の官吏の賢愚を監察させた。

帝が東に巡幸したとき、仁の政事に関する上奏文が条理に適っていたので、帝は喜んで仁を京輔都尉に任じ、さらに一月余りで司直(しちょく)に転任させた。それから数年後、仁は戻太子(れいたいし)の事件に連坐した。

時に左丞相(劉屈リ)が自ら兵を率いて、司直田仁を長として城門を閉じて守らせたのだが、仁は故意に太子を見逃して外に出したので、刑吏の手に下されて誅殺されたのである。

仁が兵を挙げたとき、長陵(陝西省)の県令車千秋(しゃせんしゅう)が変事を上奏して仁の一族は皆殺しにされた。

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太史公曰く――

孔子は「どこの国に行っても、必ずその国君から政治上の相談にあずかる」(論語の学而篇)と称せられたが、これは田叔にも当てはまるのではないだろうか。

叔は義を通して賢者を忘れず、主君の美点を明らかにしてその過失を救っている。

仁は私(太史公)と親しかったので合わせて論じた。

以下はチョ少孫(ちょしょうそん)の補遺である。

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