『史記 田叔列伝 第四十四』の現代語訳:3

このウェブページでは、『史記 田叔列伝 第四十四』の3について現代語訳を紹介しています。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 田叔列伝 第四十四』のエピソードの現代語訳:3]

チョ先生曰く――

私が郎であった頃、田仁(でんじん)は元々、任安(じんあん)と親しかったと聞いたことがある。任安はケイ陽(河南省)の人である。幼い頃に孤児となり、貧しくて人に雇われて車をひいて長安に行ったが、そのまま長安に留まり、仕官を求めて小役人になろうとした。しかし、縁故もなくてダメだったので勝手に戸籍をつくって武功(陝西省)に家を構えた。

武功は扶風(ふふう、陝西省)の西境にある小さな邑(むら)で谷の入り口に当たり、蜀の桟道(さんどう)へと続いていて山に近かった。安は武功は小さな邑で豪傑はおらず、領袖(りょうしゅう)になりやすいと判断して留まり、人に代わって求盗(きゅうとう)・亭父(ていふ)となり、後に亭長となった。

邑中の人たちが一緒に猟に出ることがあり、その時、任安はいつも人のためにオオシカ・鹿・雉(きじ)・兎を分配してやり、老人・子供・壮者を別々の部署につけて、難易度を考えて仕事を与えた。衆人はみな喜んで言った。

「何の心配もない。任少卿(じんしょうけい)は獲物の分配が公平で智略があるから」

翌日、また会合してみると数百人集まったが、任少卿は言った。

「某さんの子の某は、どうして来ないのだろうか?」

人々はその目の早いことを不思議に思った。その後、叙任されて三老(さんろう)となり親民(しんみん)に推挙され、武功から出て三百石の長となって民を治めた。

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しかし、帝がその地に出遊した時、物を供え帳(とばり)を張っての饗応(きょうおう)が不十分だったという廉(かど)で免官された。

そこで衛将軍の舎人となり田仁と知り合った。共に舎人で将軍の門下におり、心を同じくして親しく付き合った。この二人は貧乏で将軍の家令に付け届けするだけの余裕もなかったので、家令は人に噛みつく性の悪い馬を飼養させた。

二人は同じ寝床で寝ていたが仁が秘かに言った。

「家令は人を見る目がないな」

すると仁安は言った。

「将軍でさえ人を見る目がないのだ。まして家令ならなおさらないだろう」

衛将軍がこの二人を従えて平陽公主(へいようこうしゅ)の元に立ち寄ったことがあるが、その時、公主の家では二人を馬係の奴隷と同じ席で食事をさせた。

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二人は刀を抜いて席を断ち切り別に坐った。公主の家の人々はみな、いぶかしく思って二人を憎んだが、誰も叱りつけるものはなかった。その後、詔(みことのり)があって衛将軍の舎人の中から、郎を抜擢することになった。

そこで将軍は舎人の中の富裕な者を択んで、鞍つきの馬、赤い衣服、鞘に宝玉や貝の飾りがある剣などを揃えさせて、参内して推挙しようとした。たまたま、賢大夫の評判がある少府・趙禹(ちょうう)が将軍を訪問した。将軍は推挙しようとする舎人を呼んで、趙禹に会わせた。

趙禹は順次に問いかけたが、十余人の中で一人として事に習熟して智略のある者がいなかった。趙禹は言った。

「私は『将軍の門下には必ず将たるにふさわしい者がいる』と聞いております。また伝(いいつたえ)には『君主がいかなる人物か分からぬ場合にはその使っている者を視よ』とあります。今、将軍の舎人を登用しようとの詔があったのは、帝が将軍がどれほどの賢者・文武の士を配下に持たれているかを、監察なさろうという御心からです。いたずらに富裕な人の子を択んで推挙されても、それらは智略もなく、木人形に綺(あや)や繍(ぬいとり)の衣服を着せたに過ぎません。そんなものをどうなさるおつもりですか?」

こうして趙禹は衛将軍の舎人百余人をことごとく呼んで、順次に問いかけ田仁と任安を見出して言った。

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「この二人だけがよろしいと思います。後は役に立つ者はいません」

衛将軍はこの二人が貧乏なのを見て内心穏やかではなかったが、趙禹が辞去すると二人に言った。

「めいめい自分で鞍つきの馬と新しい赤の衣服をそろえよ」

二人は答えた。

「家が貧しくてそろえることができません」

将軍は怒って言った。

「お前ら二人の家は勝手に貧乏をしているだけだ。どうしてそんな情けないことを言うのか。推挙してやろうというのに、いかにも不快な感じで逆にわたしに恩恵を施すかのような言い方をするとは何事だ」

しかし、将軍をやむを得ず、名簿をたてまつってこの二人を推挙して上申した。

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