『史記 田叔列伝 第四十四』の現代語訳:4

このウェブページでは、『史記 田叔列伝 第四十四』の4について現代語訳を紹介しています。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 田叔列伝 第四十四』のエピソードの現代語訳:4]

詔がくだって衛将軍の舎人を引見することになった。二人が進み出て謁見するとまた詔があって、二人の才能と智略が調べられた。二人はお互いに譲り合った。田仁はつつしんで答えた。

「撥と太鼓をひっさげて軍門に立ち、士大夫に死をも楽しんで戦闘させる点では私は任安に及びません」

任安もつつしんで答えた。

「疑問を決裁して是非を定め、役人を取り仕切り人民に上を怨む心を無くさせる点では私は田仁に及びません」

孝武帝は大いに笑って「よろしい」といい、任安には北軍(都の守備隊)を監察させ、田仁には辺境の穀物の黄河における運送を監察させた。こうして二人はその名を天下に知らしめた。

その後、任安を益州刺史に任命し、田仁を丞相の長史に任じた。仁は次のように上書した。

「天下の郡の太守には不正を行って私利を図る者が多く、それは三河において最もはなはだしくあります。どうかまず、三河を視察して摘発することをお許しください。三河の太守はみな宮中に仕える貴人と結んで、三公と親族関係にあって、畏れはばかるところがありません。よろしくまず三河を粛正して天下の姦吏(かんり)を戒めるべきです」

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当時、河南・河内(かだい)の太守は共に御史大夫・杜周(としゅう)と父子兄弟の関係(二太守共に周の子)にあり、河東の太守は石慶(せきけい)丞相の子孫であった。この時、石氏は九人もが二千石の身分にのぼり、最盛期であった。

田仁がしばしば上書してこの点に言及すると、杜夫人および石氏は人をやって田少卿に挨拶させた。

「我々はあえて苦情を言うわけではないが、どうか少卿にはありもしないことを言い立てて、我々を誹謗したりしないようにお願いしたい」」

仁が三河を視察して摘発した結果、三河の太守はみな刑吏の手にくだされて誅殺された。仁は帰還して事情を奏上した。孝武帝は喜んで仁を豪強の権勢家をも恐れない人物と認めて、丞相の司直に任じた。仁の勢威は天下にふるった。

その後、戻太子(れいたいし)が兵を挙げた事件に遭遇した。その時、丞相は自ら兵を率いて司直に都の城門の守備を命じた。司直は太子は帝と骨肉の関係にあり、父子の間には深入りしたくないと考えて城門を閉じることはしたが、そこを立ち去って長陵の地で時を過ごした。

この時、孝武帝は甘泉宮(かんせんきゅう)におられたが、御史大夫暴君(暴勝之)に命じて、どうして戻太子を取り逃したのかを詰問させた。すると丞相は答えた。

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「司直に城門の守備を担当させたのですが、司直は太子に城門を開けてやって逃がしてしまいました」

そして上書して、

「司直を捕縛させてください」と願い出た。

こうして司直は刑吏の手にくだされ誅殺された。この時、任安は北軍の使者として軍を監察していたが、太子が車を北軍の南門の外にとめて任安を召し、割符を与えて自分のために出兵させようとした。

安は割符を拝受したが軍中に入ったまま、門を閉じて出なかった。孝武帝はこのことを聞くと、任安はいつわって割符を受け取ったらしいが太子を攻めなかったのはどうしてだろうかと訝しく思った。

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ところで任安はかつて北軍の会計官の小役人をむちうって辱めたことがあり、その小役人が上書して、

「任安は太子の割符を受け取る時に、はっきりとした綺麗な割符を与えてくださいと申しておりました」と訴えた。

その書が上聞に達すると孝武帝は言った。

「あの任安は老獪な役人である。兵乱が起こったのを知るとじっとして成敗の行方を観察しどちらが勝つかを見極めて、勝った方に味方しようと思ったに違いない。二心があったのだ。安は今までにも死刑に当たる罪が非常に多かったが、わしが常に生かしてやったのだ。それなのに今でも詐り(いつわり)を抱き、不忠の心を持っている」

こうして帝は安を刑吏の手にくだして誅殺したのである。

そもそも月は満ちれば欠け、物が盛んであれば衰えるのは、天地間における常である。進むを知って退くを知らず、久しく富貴の勢いに乗り続ければ、禍が積もって祟りをなす。それ故、范蠡(はんれい)は越を去り、辞退して官位を受けなかったのである。

そのため、名は後世に伝わり永遠に忘れられることがない。その達人ぶりには及ぶべくもないが、後進の者はこの点を慎んで戒めなければならない。

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