『孫子 第七 軍争篇』の現代語訳:2

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『孫子』とは古代中国の“兵法家・武将の名前”であると同時に“兵法書の名前”でもある。孫子と呼ばれる人物には、春秋時代の呉の武将の孫武(そんぶ,紀元前535年~没年不詳)、その孫武の子孫で戦国時代の斉の武将の孫ピン(そんぴん,紀元前4世紀頃)の二人がいる。世界で最も著名な古代の兵法書である『孫子』の著者は孫武のほうであり、孫ピンの兵法書は『孫子』と区別されて『孫ピン兵法』と呼ばれている。

1972年に山東省銀雀山で発掘された竹簡により、13篇から構成される『孫子』の内容が孫武の書いたものであると再確認され、孫武の子孫筋の孫ピンが著した『孫ピン兵法』についても知ることができるようになった。『戦わずして勝つこと(戦略性の本義)』を戦争・軍事の理想とする『孫子』は、現代の軍事研究・兵法思想・競争原理・人間理解にも応用されることが多い。兵法書の『孫子』は、『計篇・作戦篇・謀攻篇・形篇・勢篇・虚実篇・軍争篇・九変篇・行軍篇・地形篇・九地篇・火攻篇・用間篇』という簡潔な文体からなる13篇によって構成されている。

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金谷治『新訂 孫子』(岩波文庫),浅野裕一『孫子』(講談社学術文庫),町田三郎『孫子』(中公文庫・中公クラシックス)

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[書き下し文]

第七 軍争篇(つづき)

四 軍政に曰く、言うとも相聞こえず、故に金鼓(きんこ)を為る(つくる)。視るとも相見えず、故に旌旗(せいき)を為ると。夫れ金鼓・旌旗なる者は、人の耳目を一にする所以なり。人、既に専一なれば、則ち勇者も独り進むことを得ず、怯者(きょうしゃ)も独り退くことを得ず。紛紛紜紜(ふんぷんうんうん)、闘乱して乱るべからず、渾渾沌沌(こんこんとんとん)、形円く(まるく)して敗るべからず。此れ衆を用うるの法なり。故に夜戦に火鼓多く、昼戦に旌旗多きは、人の耳目を変える所以なり。

故に三軍も気を奪うべく、将軍も心を奪うべし。是の故に朝の気は鋭、昼の気は惰、暮れの気は帰。故に善く兵を用うる者は、其の鋭気を避けて其の惰帰(だき)を撃つ。此れ気を治むる者なり。治を以て乱を待ち、静を以て譁(か)を待つ。此れ心を治むる者なり。近きを以て遠きを待ち、佚(いつ)を以て労を待ち、飽を以て飢を待つ。此れ力を治むる者なり。正正の旗を邀うる(むかうる)ことなく、堂堂の陣を撃つことなし。此れ変を治むる者なり。

[現代語訳]

四 古代の兵法書では、口で言っても聞こえない、だから鍾・太鼓を作るのだ。動きで見せるだけでは見えない。だから旗や旗さしものを作るのだと言っている。そもそも、鍾・太鼓・旗・さしものは兵士の耳目を統一させるためのものだ。兵士が統一されていれば勇敢なものでも独断で進むことはできないし、臆病なものでも逃げ出すことができない。両軍が入り乱れる混戦になっても軍は統制が乱れず、混戦が何度も繰り返されても、陣形を自由に変えて敗れることがない。これが大軍を動かす原則である。だから、夜戦には篝火・太鼓が多く、昼の戦いには旗・さしものが多いのは、周囲の明るさに応じて、兵士の注意が向きやすくするためである。

だから、やりようによっては、三軍の士気を奪い取り、将軍の心を腑抜けにすることもできるのだ。そのため、朝方の気力は鋭く、昼の気力は怠惰に緩み、夜の気力は尽きてしまう。だから、戦いに優れている人は、朝の鋭い気力を避けて、気力が緩む昼・気力が尽きる夜を見計らって撃つのである。これが、兵士の気力を知っている者である。統制の取れた状態で混乱した相手を撃ち、冷静な状態で浮ついて乱れた相手に向かう。これは、兵士の心理を知っている者である。戦場の近くに待機して、遠方からの敵を待ち受け、十分に休養してから疲労した相手と向き合い、お腹を満たしてから空腹の相手に向かう。これは、戦力について知っている者である。旗・さしものがしっかりしている軍を迎え撃つことはしないし、堂々とした陣形の敵には攻撃を仕掛けない。これは、軍の変化について知っているからである。

[解説]

孫子が古代の兵法書にある言葉を参照しながら、『鍾・太鼓・旌旗』を用いて軍隊を統制して自在に動かす兵法の有利さについて語っている。騒音の多い戦場では人間の声だけでは聞こえないので、鍾や太鼓を打ち鳴らしたり、大きな旌旗を翻したりして、将軍の進軍・退却の命令を伝えたり仲間の軍隊を鼓舞したりするのである。

この章では、軍隊の気力が最も充実するのは朝であり、その気力が緩んできて怠惰になりやすいのが昼だとしており、夜になると張り詰めていた気力を維持できなくなってしまうという。故に、自軍が攻撃を仕掛けるのであれば昼・夜の時間帯が相応しく、『怠惰・疲労の状態にある敵』を打ち破りやすくなる。また、ここでは『兵士の気力と心理・敵の戦力・敵陣の変化』を正確に理解した上で作戦を立てることの重要性が指摘されている。

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[書き下し文]

第七 軍争篇(つづき)

五 故に用兵の法は、高陵(こうりょう)には向かうこと勿れ(なかれ)、背丘(はいきゅう)には逆らうこと勿れ、佯北(しょうほく)には従うこと勿れ、鋭卒(えいそつ)には攻むること勿れ、餌兵(じへい)には食うこと勿れ、帰師(きし)には遏むる(とどむる)こと勿れ、囲師(いし)には必ず闕き(かき)、窮寇(きゅうこう)には迫ること勿れ。此れ用兵の法なり。

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[現代語訳]

五 だから、用兵の原則は、高い丘にいる敵に向かって攻めてはならない、丘を背にして勢いよく攻めてくる敵を迎え撃ってはならない、険しい地勢にいる敵と長く対峙してはいけない、偽りの退却をする敵を追ってはならない、士気の高い兵には攻撃を仕掛けてはならない、囮の兵士に攻撃してはならない、母国に退却しようとしている敵軍をふさいではならない、包囲した敵軍には逃げ道を開けておき、窮地に追い込まれた敵軍を迫害し続けてはならない。これが戦いの原則である。

[解説]

孫子の兵法は、地形と情勢と士気と謀略を考えた上で決定されるのだが、『母国に帰ろうとする敵に対する寛容さ・窮地に追い込まれた敵に逃げ道を開ける情け』についても語られている。つまり、徹底的に弱った敵軍を殲滅して虐殺するような戦闘方法を肯定していなかった(敵軍を極端に弾圧してやり過ぎると、遺恨・憎悪を敵に植え付けてしまいその報復を受けるリスクが高まる)のは注意すべき点かもしれない。

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