『徒然草』の227段~230段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の227段~230段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第227段:六時礼讃(ろくじらいさん)は、法然上人の弟子、安楽といひける僧、経文を集めて作りて、勤めにしけり。その後、太秦善観房(うずまさのぜんかんぼう)といふ僧、節博士(ふしはかせ)を定めて、声明(しょうみょう)になせり。一念の念仏の最初なり。後嵯峨院の御代より始まれり。法事讃(ほうじさん)も、同じく、善観房始めたるなり。

[現代語訳]

六時礼讃(一日を六時に分けてその度に極楽往生の讃文を唱える浄土門の方法)は、法然上人の弟子の安楽という僧が経文を集めて作って、お勤めしたものである。その後、太秦の善観房という僧が音楽的な節や調子を定めて声明にしたのである。一念の念仏の最初とされる。後嵯峨院の御代よりこれは始まった。法事讃(浄土転経行道の法則を明らかにした方法)も、同じく善観房が始めたものである。

[古文]

第228段:千本の釈迦念仏は、文永の比(ころ)、如輪上人(にょりんしょうにん)、これを始められけり。

[現代語訳]

千本(京都市上京区千本にある瑞応山大報恩寺)の釈迦念仏(南無釈迦牟尼仏と唱える念仏)は、文永の頃に如輪上人が始められたものである。

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[古文]

第229段:よき細工は、少し鈍き刀を使ふと言ふ。妙観(みょうかん)が刀はいたく立たず。

[現代語訳]

小さな器具を巧みに製作する職人は、少し切れ味の鈍い刃物を使う。彫刻の名人の妙観の小刀はまるで切れないという。

[古文]

第230段:五条内裏には、妖物(ばけもの)ありけり。藤大納言殿(とうのだいなごんどの)語られ侍りしは、殿上人ども、黒戸にて碁を打ちけるに、御簾(みす)を掲げて見るものあり。『誰そ』と見向きたれば、狐、人のやうについゐて、さし覗きたるを、『あれ狐よ』とどよまれて、惑ひ逃げにけり。

未練の狐、化け損じけるにこそ。

[現代語訳]

五条の内裏には妖怪がいた。藤の大納言様(二条為世)が語られるには、夜に黒戸で殿上人たちが碁を打っていると、御簾をかかげて覗いているものがいる。『誰だ?』とそちらの方向を見てみると、狐が人のように突っ立って覗いていた。『あれは狐だ』と大声でみんなが騒いで逃げていった。

(化ける技術が)未熟な狐が、化け損じたらしい。

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