清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。
このウェブページでは、『枕草子』の『うれしきもの まだ見ぬ物語の一を見て、いみじうゆかしとのみ思ふが~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。
参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)
[古文・原文]
261段
うれしきもの
まだ見ぬ物語の一を見て、いみじうゆかしとのみ思ふが、残り見いでたる。さて、心劣りするやうもありかし。人の破り捨てたる(やりすてたる)文を継ぎて見るに、同じ続きをあまたくだり見続けたる。
いかならむと思ふ夢を見て、恐ろしと胸つぶるるに、ことにもあらず合せなしたる、いとうれし。
よき人の御前に人々あまた侍ふ折、昔ありける事にもあれ、今聞しめし、世に言ひける事にもあれ、今きこしめし、世に言ひけることにもあれ、語らせ給ふを、我に御覧じ合はせてのたまはせたる、いとうれし。
遠き所は更なり、同じ都の内ながらも隔たりて、身にやむごとなく思ふ人の悩むを聞きて、いかにいかにと、おぼつかなきことを嘆くに、おこたりたるよし、消息聞くも、いとうれし。
思ふ人の、人にほめられ、やむごとなき人などの、口をしからぬものに思しのたまふ。
ものの折、もしは人と言ひかはしたる歌の、聞えて、打聞(うちぎき)などに書き入れらるる。みづからの上にはまだ知らぬ事なれど、なほ思ひやるよ。
いたううち解けぬ人の言ひたる古き言の知らぬを、聞き出でたるも、うれし。後に、物の中などにて見いでたるは、ただをかしう、これにこそありけれと、かの言ひたりし人ぞ、をかしき。
[現代語訳]
261段
嬉しいもの
まだ読んだことのない物語の一巻を読んで、とても続きを読みたいとばかり思っていたが、その残りを読むことができた。さて、思っていたよりも内容が劣っていることもあるのだが。人の破り捨てた手紙を貼り継ぎして見る時に、ぴったり合わさった文の続きを何行も続けて読むことができた。
どうなのだろうかと思う夢を見て、恐ろしくて不安に胸が潰れている時、何でもない夢なのだと解釈してくれたのは、とても嬉しい。
身分の高い人の御前に女房たちが大勢侍っている時、昔あった事であれ、今お聞きになったこと、世間で言われている事であれ、お話になられる時に、私に目を合わせておっしゃってくれたのは、とても嬉しい。
遠い所は言うまでもなく、同じ都の中でも離れていて、自分にとって大切な人が病気だと聞いて、どんな病状だろうかと、お見舞いにも行けないことを嘆いている時に、良くなったと人づてに聞くのも、とても嬉しい。
好きな人が、人に褒められ、高貴なお方などが、言葉を惜しまずに褒めて下さる時。
何かの折、もしくは人とやり取りした歌が、世の評判になって、誰かの打聞(うちぎき)などに書き入れられる時。自分のこととしてはまだそんな経験はないけれど、やはり想像してみると嬉しい。
あまり親しくない人が口ずさんだ古歌の知らないものを、他の人から聞いて知ったのも嬉しい。後で、何か本の中などで歌を見つけた時は、ただ面白く思って、あぁこの歌だったのだなと、あの歌を口ずさんでいた人の気持ちがしれて、面白いのである。
[古文・原文]
261段(終わり)
陸奥紙(みちのくがみ)、ただのも、よき、得たる。
恥づかしき人の、歌の本末(もとすえ)問ひたるに、ふとおぼえたる、我ながらうれし。常におぼえたる事も、また人の問ふに、清う忘れて止みぬる折ぞ、多かる。
とみにて求むる物、見出でたる。
物合(ものあわせ)、なにくれといどむことに勝ちたる、いかでかはうれしからざらむ。また、我はなど思ひて、したり顔なる人、はかり得たる。女どちよりも、男は、まさりてうれし。これが答は必ずせむと思ふらむと、常に心づかひせらるるも、をかしきに、いとつれなく、何とも思ひたらぬさまにて、たゆめ過すも、またをかし。
にくき者の、あしき目見るも、罪や得らむと思ひながら、またうれし。
もののをりに、衣打たせにやりて、いかならむと思ふに、きよらにて得たる。刺櫛(さしぐし)磨らせ(すらせ)たるに、をかしげなるも、またうれし。またも多かるものを。
日ごろ月ごろ、しるきことありてなやみわたるが、おこたりぬるも、うれし。思ふ人の上は、わが身よりもまさりて、うれし。
御前に、人々、所もなく居たるに、今のぼりたるは、少し遠き柱もとなどに居たるを、とく御覧じつけて、「こち」と仰せらるれば、道あけて、いと近う召し入れられたるこそ、うれしけれ。
[現代語訳]
261段(終わり)
陸奥紙(みちのくがみ)、普通の紙でも、良い紙を手に入れた時。
一目置いている人に、歌の上の句や下の句を聞かれて、とっさに思い浮かんだ時は、我ながら嬉しくなる。いつも覚えている歌も、人に問われた時には、綺麗に忘れてしまって思い出せないままになってしまう事が、多いものである。
急な用事で求めている物を、見つけ出した時。
物合(ものあわせ)、何やかんやと人との競争で勝った時には、どうして嬉しくないということがあるだろうか。また、我こそはと自惚れて、得意顔になっている人を、ひっかけてやり込めた時。女同士よりも、相手が男のほうが、一層嬉しい。この仕返しをきっとしてやると思っているに違いないと、常日頃から気を配っているのも面白いのに、まったく知らない振りをして、何とも思っていない様子で、こちらを油断させて過ごしているのも、また面白い。
憎たらしい人が、不幸な目に遭うのも、罪を得るかもしれないと思いながらも、また嬉しい。
何かの支度の折に、着物を打たせにやって、どうだろうかと仕上がりを思っていると、綺麗にできあがってきた時。刺櫛(さしぐし)を磨かせたところ、趣きのあるものができてきた時も、また嬉しい。また他にも色々な嬉しいことがあるだろう。
何日も何ヶ月も、酷い様子で病気になっていたのが、治ってきたのも、嬉しい。愛する人の時には、自分の身のことにも勝って、嬉しい。
御前に、女房たちが居場所もないくらい大勢侍っているのに、今御前に上がってきた私は、少し離れた柱の所などに座っているのを、すぐに御覧になってくださって、「こちらへ」と帝がおっしゃるので、人々が道を開けて、とても近くまで召し入れられたのは、嬉しいものだ。
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