『歎異抄』の第十二条と現代語訳

“念仏信仰・他力本願・悪人正機”を中核とする正統な親鸞思想について説明された書物が『歎異抄(たんにしょう)』である。『歎異抄』の著者は晩年の親鸞の弟子である唯円(1222年-1289年)とされているが、日本仏教史における『歎異抄』の思想的価値を再発見したのは、明治期の浄土真宗僧侶(大谷派)の清沢満之(きよざわまんし)である。

『歎異抄(歎異鈔)』という書名は、親鸞の死後に浄土真宗の教団内で増加してきた異義・異端を嘆くという意味であり、親鸞が実子の善鸞を破門・義絶した『善鸞事件』の後に、唯円が親鸞から聞いた正統な教義の話をまとめたものとされている。『先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎く』ために、この書物は書かれたのである。

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金子大栄『歎異抄』(岩波文庫),梅原猛『歎異抄』(講談社学術文庫),暁烏敏『歎異抄講話』(講談社学術文庫)

[原文]

第十二条

一。経釈(きょうしゃく)をよみ学せざるともがら、往生不定(おうじょうふじょう)のよしのこと。この条すこぶる不足言の義(ごんのぎ)といひつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教(しょうぎょう)は、本願を信じ、念仏をまふさば仏になる、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことはりにまよへらんひとは、いかにもいかにも学問して本願のむねをしるべきなり、経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もとも不便のことなり。

一文不通(いちもんふつう)にして、経釈のゆくぢもしらざらんひとの、となへやすからんための名号のおはしますゆへに易行(いぎょう)といふ。学問をむねとするは聖道門(しょうどうもん)なり、難行となづく。あやまて学問して名聞(みょうもん)・利養(りよう)のおもひに住するひと、順次の往生いかがあらんずらんといふ証文もさふらうべきや。当時、専修念仏のひとと聖道門のひと、法論(ほうろん)をくはだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりといふほどに、法敵(ほうてき)もいできたり、謗法(ぼうほう)もおこる。

これしかしながら、みづからわが法を破謗(はぼう)するにあらずや。たとひ諸門こぞりて、念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやしといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく下根(げこん)の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、さらに上根(じょうこん)のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします。

たとひ自余(じよ)の教法(きょうほう)すぐれたりとも、みづからがためには器量およばざればつとめがたし。われもひとも生死をはなれんことこそ諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからずとて、にくひ気せずば、たれのひとかありて、あだをなすべきや。かつは諍論(じょうろん)のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離(ちしゃおんり)すべきよしの証文さふらふにこそ。

故聖人のおほせには、この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏(ぶつ)ときおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。また、ひとありてそしるにて、仏説まことなりけりと、しられさふらう。しかれば、往生はいよいよ一定とおもひたまふなり。あやまてそしるひとのさふらはざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんともおぼへさふらひぬべけれ。かくまふせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。

仏のかねて信謗(しんぼう)ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがひをあらせじと、ときおかせたまふことをまふすなり、とこそさふらひしか。いまの世には、学文(がくもん)してひとのそしりをやめ、ひとへに論義問答むねとせんと、かまへられさふらうにや。学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかがなんど、あやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢(ぜんあくじょうえ)なきおもむきをも、とききかせられさふらはばこそ、学生のかひにてもさふらはめ。

たまたまなにごころもなく本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどいひをどさるること、法の魔障(ましょう)なり、仏の怨敵(おんてき)なり、みづから他力の信心かくるのみならず、あやまて他をまよはさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。

[現代語訳]

経典やその注釈を読んで学ぶことができない同胞たちは、往生できるかどうか分からないということ。この考え方は、全く論じるべき意味のないことだと言わなければなりません。他力本願の真理を明らかにした様々な聖なる経典は、阿弥陀仏様の本願を信じて念仏をすれば仏になることを記しており、その他に極楽に往生するために必要な学問などはないのです。本当に、この真理に迷っている人は、一生懸命に難解な学問をして本願の意味を知ろうとする必要があるでしょうが、経典や注釈書を読んで学問をしても、聖なる教えの本当の意味を理解できないのであれば、それは哀れで無益なことなのです。

一文字も読めない無学な人で、経典や注釈書の道筋を知らない人であっても、唱えやすいようにと考えられたのが南無阿弥陀仏の名号でありますから、これを易行(易しい修行)というのです。難しい学問を悟りの手段にするのは聖道門であり、これは難行と名づけられているものです。間違って学問をして、名声や利益を得たいという思いを持って生きている人は、順番に次の世で極楽往生することができるかどうか分からないという親鸞聖人の証文もございます。当時、専修念仏(浄土門)の人と聖道門の人とが、仏法に関する論争を行って、私の宗派が優れているとかお前の宗派は劣っているとか争っていましたが、そういうことをやっていると、仏法の敵や法を誹謗する者が出てきてしまうのです。

しかしこれは、自分で自分の法を破ったり誹謗したりすることになるのではないでしょうか。例え、全ての仏教の宗派が、念仏は愚かな人のためのもので、その宗派の教義は浅薄で低俗なものだと言っても、決して争うことなどせずに、私たちのように卑賤な凡夫は、一文字も理解できない無学な者ですが、信じれば救われるという教えを聞いてただ信じていますので、あなたのように博識で高貴な方にとっては愚かで卑しい教えかもしれませんが、私たちにとってはこれ以上ない最高の法なのでございますと答えれば良い。

例え、念仏以外の教法が優れているとしても、私たちの知識や才能が及ばないのでその優れた教法を実践することができないのです。私もあなたも生死を離れる(輪廻を離脱する)ことが諸仏の教えの本意でございますから、私の信仰を邪魔することはやめておいてくださいと、憎たらしい様子を見せずに言えば、誰が邪魔などしてくるだろうか。また争論をしていると、(相手をやりこめて自分が優位に立とうとする)様々な煩悩が起こってきます、智慧ある者は争論を遠ざけておいたほうが良いという親鸞聖人の証文もございます。

亡くなった親鸞聖人のお言葉によると、この仏法を信じる衆徒もいれば、誹謗する衆徒もいるだろうと釈迦(仏陀)が説かれており、私はそれを信じています。また、仏法を誹謗する人を見ると、やはり仏陀の言っていた言葉(仏法を誹謗する衆徒もいるということ)は正しかったのだということが分かります。そうであれば、念仏を唱えて往生できるということが、ますます確実なことだと思えてきます。間違って仏法を誹謗する人がいなかったら、どんなに信じる人がいても、誹謗する人がいないのはなぜなのだろうかと逆に考えなければならないのです。このように申し上げていますが、必ず人に謗られたいという話ではありません。

仏様は以前から、仏法に対して信じる人もいれば誹謗する人もいるということを知っておられて、誹謗されたからといって仏法そのものを疑ってしまう人がいてはならないと思われて、このようなことを説かれているのです、と親鸞聖人はおっしゃられていました。現代では、学問をして人の誹謗中傷をやめさせようとし、冷静な議論や問答でもしようと構えておられるのでしょうか。学問をすれば、さらに阿弥陀如来の本当の意志を知って、すべての人を救おうとするその悲願の広大さを理解できるというのであれば、卑賤・無学な身では往生できないのではないかと疑っている衆生に、阿弥陀仏様の本願には善悪・浄穢の区別などないということを説いて聞かせることができればこそ、学問をしている人の価値があると言えるのでしょう。

たまたま無心で阿弥陀仏様の本願に従って念仏を唱えている人を、学問をしてこそ本当の信仰になるのだなどと脅すのは、仏法の邪魔をする悪魔であり、仏敵なのです。自分自ら他力本願の信心が欠けているだけでなく、間違って他人の信仰をも迷わそうとしているのです。慎んで畏れなければならない考え方です、先師のお心に背いている考え方なのですから。更に憐れむべきことです、阿弥陀仏様の本願にないことを勝手に訴えているのですから。

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