『枕草子』の現代語訳:20

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清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

『枕草子』は池田亀鑑(いけだきかん)の書いた『全講枕草子(1957年)』の解説書では、多種多様な物事の定義について記した“ものづくし”の『類聚章段(るいじゅうしょうだん)』、四季の自然や日常生活の事柄を観察して感想を記した『随想章段』、中宮定子と関係する宮廷社会の出来事を思い出して書いた『回想章段(日記章段)』の3つの部分に大きく分けられています。紫式部が『源氏物語』で書いた情緒的な深みのある『もののあはれ』の世界観に対し、清少納言は『枕草子』の中で明るい知性を活かして、『をかし』の美しい世界観を表現したと言われます。

参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

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[古文・原文]

31段

菩提といふ寺に、結縁(けちえん)の八講せしに詣でたるに、人のもとより「疾く帰り給ひね(とくかえりたまいね)。いとさうざうし」と言ひたれば、蓮の葉のうらに、

もとめてもかかる蓮の露をおきて憂き世にまたは帰るものかは

と書きてやりつ。誠に、いと尊くあはれなれば、やがてとまりぬべくぞ覚ゆるに、さうちうが家の人のもどかしさも忘れぬべし。

[現代語訳]

31段

菩提という寺で、結縁の八講が催されたので参詣したところ、ある人から「速くお帰りください。あなたがいないととてもつまらない」という手紙を送って寄越してきたので、蓮の葉っぱの裏に、

そんなに求められても、このような素晴らしい蓮の露(仏道の功徳)を放ったらかしにしたまま、憂鬱な俗世などにまた帰ろうと思えるものか。

と書いて送り返した。本当に、非常に尊い説法で感動したので、そのまま出家したいような気持ちになり、故事で家路を忘れたという湘中老師(そうちゅうろうし)のように、私の帰りを待っている家人のもどかしい気持ちを忘れてしまいそうになった。

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[古文・原文]

32段

小白河(こしらかわ)といふ所は、小一条の大将殿の御家ぞかし、そこにて上達部(かんだちめ)、結縁の八講し給ふ。世の中の人、いみじうめでたきことにて、「遅からむ車などは立つべきやうもなし」と言へば、露と共に起きて、げにぞ、暇なかりける轅(ながえ)の上にまたさし重ねて、三つばかりまでは、少し物も聞ゆべし。

六月十余日にて、暑きこと世に知らぬほどなり。池の蓮を見やるのみぞ、いと涼しき心地する。左右の大臣(おとど)たちをおき奉りては、おはせぬ上達部なし。二藍の指貫(さしぬき)、直衣(なほし)、浅黄(あさぎ)の帷子(かたびら)どもぞ透かし給へる。少し大人び給へるは、青鈍(あおにび)の指貫、白き袴もいと涼しげなり。佐理(すけまさ)の宰相なども皆若やぎだちて、すべて尊きことの限りにもあらず、をかしき見物なり。

廂(ひさし)の簾(す)、高うまき上げて、長押(なげし)の上に、上達部は奥に向きて、長々と居給へり。その次には、殿上人(てんじょうびと)、若君達(わかきんだち)、狩装束(かりしょうぞく)、直衣などもいとをかしうて、え居も定まらず、ここかしこに立ちさまよひたるも、いとをかし。実方(さねかた)の兵衛の佐(ひょうえのすけ)、長明侍従(ちょうめいじじゅう)など、家の子にて、今すこし出で入りなれたり。まだ童なる君など、いとをかしくておはす。

少し日たくるほどに、三位(さんみ)の中将とは関白殿をぞ聞えし、香の薄物の二藍の御直衣、二藍の織物の指貫、濃蘇枋(こすほう)の御袴に、張りたる白き単のいみじうあざやかなるを着給ひて歩み入り給へる、さばかり軽び涼しげなる御中に、暑かはしげなるべけれど、いといみじうめでたしとぞ見え給ふ。朴(ほほ)、塗骨(ぬりぼね)など骨はかはれど、ただ赤き紙をおしなべてうち使ひ持給へるは、撫子のいみじう咲きたるにぞ、いとよく似たる。

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[現代語訳]

32段

小白河殿というのは、小一条の大将の邸宅のことだが、そこに上達部の人々が集まって結縁の八講を開催された。世間の人々は、とてもありがたい催しだと言って、「遅く着いた車などは、立てる場所もない」というので、朝早く露と一緒に起きて行ってみた。本当に、隙間なく並んだ車が轅の上にまた轅を重ねるといった感じで、三列目までは何とかものが聞こえる。

六月十何日かは、今までの世になかったほどの猛烈な暑さだった。池の蓮を見渡す景色だけは、とても涼しい感じがする。左右の両大臣の他には、参加しない上達部はいらっしゃらない。みんな、二藍の指貫、直衣に、薄黄色の夏の下着を透けるような感じで着こなしている。少し年長の方々は、青鈍の指貫に白い下袴を透かして着ていらっしゃるがこれも涼しげな装いである。佐理の宰相などもみんな若々しい装いをしていて、すべてありがたい法会の開催というだけではなくて、みなさんが着ておられる装束が見物となっている。

庇の間の簾を高く巻き上げて、簀子の縁よりも一段高い長押の上に置いて、上達部は奥の母屋の方を向いて、長々と列を作って座っていらっしゃる。その次の間には、殿上人や若い公達といった人たちが、狩衣や直衣などをおしゃれに着こなしているが、どこか落ち着かないのだろうか、あちらこちらをうろうろとしているのも興味深い。実方の兵衛の佐や長命侍従などは、この邸宅の家人だから、邸宅への出入りも慣れた様子である。まだ元服もしていない若君なども、とても可愛らしくいらっしゃる。

そろそろ日が上がろうとする頃、三位の中将(後の関白殿)が、二藍の直衣の下に丁子染めの帷子を着て、同じ二藍の織物の指貫をまとい、濃い蘇芳色の下袴を穿いて、張って艶のある白い単を帷子の上からまとって、ご自分の席へと歩いて入っていらっしゃった。みんなが涼しげな軽装の装束を着ている中に、こんな重苦しい恰好で来たら暑苦しく思われそうだが、とても立派な貫禄のある装いのように見えた。皆さんは、朴・塗り骨など色々な骨を使い、同じような赤い紙を張った扇を使ったり所持したりしていたが、そのみんなが赤い扇を持っている光景は、撫子の花が一面に咲き誇っている景色にとてもよく似ている。

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