『徒然草』の231段~234段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の231段~234段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第231段:園の別当入道は、さうなき庖丁者(ほうちょうしゃ)なり。或人の許にて、いみじき鯉を出だしたりければ、皆人、別当入道の包丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でんもいかがとためらひけるを、別当入道、さる人にて、『この程、百日の鯉を切り侍るを、今日欠き侍るべきにあらず。枉げて申し請けん』とて切られける、いみじくつきづきしく、興ありて人ども思へりけると、或人、北山太政入道殿に語り申されたりければ、『かやうの事、己れはよにうるさく覚ゆるなり。「切りぬべき人なくは、給べ(たべ)。切らん」と言ひたらんは、なほよかりなん。何条、百日の鯉を切らんぞ』とのたまひたりし、をかしく覚えしと人の語り給ひける、いとをかし。

大方、振舞ひて興あるよりも、興なくてやすらかなるが、勝りたる事なり。客人(まれびと)の饗応(きょうおう)なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも、まことによけれども、ただ、その事となくてとり出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉らん」と云ひたる、まことの志なり。惜しむ由して乞はれんと思ひ、勝負の負けわざにことづけなどしたる、むつかし。

[現代語訳]

園の別当入道(1234年に24歳で出家した藤原基氏)は、比類のない庖丁人である。ある人の屋敷で立派な鯉がでてきた時に、みんなが別当入道の包丁捌きを見たいと思ったが、名人にたやすく匠の技の披露を求めるのもいかがなものかと躊躇う中、当の別当入道はさりげなく、『最近、百日にわたって鯉を切り続けているので、今日も欠かすべきではない。是非ともその鯉を申し受けたいと思います』とおっしゃって鯉を切られた。とても自然で素晴らしい振舞いだとその場にいた人たちは興趣を感じた。ある人が、この話を北山の太政入道殿(西園寺実兼)に語ったところ、『そのような話は、自分にはとても煩わしく回りくどいもののように思える。「切る人がいないのならば、私が鯉を切りましょう」とでも言っていれば更に良かったのに。どうして、百日の鯉を切ろうなどと言ったのだろうか』とおっしゃっていたので、それを聞いた人が面白い話だと語ったのだが、確かに面白い言い分である。

大体、日常生活では特別な感じに振る舞って趣きがあるようにするよりも、趣きなどがなくても安らかな方が勝っているのだ。客人をもてなす饗応でも、大げさな接待もまことに結構なことだけれども、ただ特別な事をせずに客人の前に料理を並べるだけのほうが(気疲れしなくて)とても良い。人に物を上げる場合でも、何かのついでじゃなくて『これをあげる』とでも言ったほうが真心が伝わる。惜しむふりをしてそれが欲しいと言われたくなったり、勝負の負けを理由にして上げるなどのこともあるが、人に自然に嫌味(負担)なく物を上げるというのは難しい。

[古文]

第232段:すべて、人は、無智・無能なるべきものなり。或人の子の、見ざまなど悪しからぬが、父の前にて、人と物言ふとて、史書の文を引きたりし、賢しくは聞えしかども、尊者の前にてはさらずともと覚えしなり。また、或人の許にて、琵琶法師の物語を聞かんとて琵琶を召し寄せたるに、柱の一つ落ちたりしかば、『作りて附けよ』と言ふに、ある男の中に、悪しからずと見ゆるが、『古き柄杓の柄ありや』など言ふを見れば、爪を生ふ(おう)したり。琵琶など弾くにこそ。盲法師(めくらほうし)の琵琶、その沙汰にも及ばぬことなり。道に心得たる由にやと、かたはらいたかりき。『柄杓の柄は、檜物木とかやいひて、よからぬ物に』とぞ或人仰せられし。

若き人は、少しの事も、よく見え、わろく見ゆるなり。

[現代語訳]

すべての人間は、学問がなくて芸能がないくらいのほうが良いものなのだ。ある人の子供が、外見は悪くないのだが、父親の前で父の客人と議論していた。『史書』の文を引用したりして賢くは見えたのだけれど、目上の人の前で知識自慢をするのは如何なものかと思った。また、ある人の家で、琵琶法師の弾き語りでも聞こうと思って、まず琵琶を召し寄せたのだが、その琵琶の弦の支柱が一つ落ちていて弾くことができず、『作ってつけよ』と主人が言った。ある男たちの中で身分が低くないように見える男が、『古い柄杓の柄はあるか?』などと言うから見てみると爪を長く伸ばしている。いかにも琵琶を弾きそうな感じである。盲目の法師の弾く琵琶には、そんな処置の仕方などは必要ない。琵琶の道を心得た振りをしているだけかと片腹痛かった。『柄杓の柄は、檜物の木で良くないものだ』とある人もおっしゃっていたのだが。

(老人にとっては)若い人のやる事は、少しのことであっても、よく見えたり悪く見えたりするものなのだ。

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[古文]

第233段:万の咎(とが)あらじと思はば、何事にもまことありて、人を分かず、うやうやしく、言葉少からんには如かじ。男女・老少、皆、さる人こそよけれども、殊に、若く、かたちよき人の、言うるはしきは、忘れ難く、思ひつかるるものなり。

万の咎は、馴れたるさまに上手めき、所得たる気色して、人をないがしろにするにあり。

[現代語訳]

あらゆる事で他人の非難を受けないようにしようと思うならば、何事も実直にして、人を区別せずに礼儀正しく振る舞い、多くを語り過ぎない事が大切だ。老若男女に関係なくみんな平等にというのが理想ではあるが、特に若くて外見の美しい人の言葉の麗しさは、忘れ難いもので、心が惹きつけられるものである。

物事の失敗の要因は、(本当は大したことがないのに)物事に習熟している振りをして自慢したり、高い地位を得て得意そうな行動をし、人を軽く見て侮るところにあるのである。

[古文]

第234段:人の、物を問ひたるに、知らずしもあらじ、ありのままに言はんはをこがましとにや、心惑はすやうに返事したる、よからぬ事なり。知りたる事も、なほさだかにと思ひてや問ふらん。また、まことに知らぬ人も、などかなからん。うららかに言ひ聞かせたらんは、おとなしく聞えなまし。

人は未だ聞き及ばぬ事を、我が知りたるままに、『さても、その人の事のあさましさ』などばかり言ひ遣りたれば、『如何なる事のあるにか』と、押し返し問ひに遣るこそ、心づきなけれ。世に古り(ふり)ぬる事をも、おのづから聞き洩すあたりもあれば、おぼつかなからぬやうに告げ遣りたらん、悪しかるべきことかは。

かやうの事は、物馴れぬ人のある事なり。

[現代語訳]

人から質問をされた時に、こんな事を知らないはずもない、ありのままに言うのも馬鹿げていると思い、相手を惑わせるような曖昧な返事を事がある。これは良くない事だ。人は自分が知っている事であっても、なおその知識を確かなものにしたいと思って質問することがある。また、本当に常識的なことを知らない人もいないわけではない。知っていることを簡単に言い聞かせるならば、相手に素直な意見として聞いてもらうことができる。

人がまだ聞き及ばないことを自分が知っていると、つい自分が知っていることのままに、『それにしても、あの人の事件の驚いた事といったら』などと曖昧なかたちで言ってしまうものだ。『どのような事件だったのでしょうか』と、詳しく聞き返さなければならない相手の立場からすると、(はっきりしない曖昧なほのめかしは)不快で面白くなかったりする。世間で言い古されている古い情報であっても、何となく聞き漏らしてしまう事だってあるのだから、誰にでも分かるように丁寧に語り聞かせる事は悪いことであろうか、いや悪いことではない。

曖昧なほのめかしのような物の言い方は、自分自身もそのことについて余り詳しくない人が良くする言い方である。

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