『竹取物語』は平安時代(9~10世紀頃)に成立したと推定されている日本最古の物語文学であり、子ども向けの童話である『かぐや姫』の原型となっている古典でもあります。『竹取物語』は、『竹取翁の物語』や『かぐや姫の物語』と呼ばれることもあります。竹から生まれた月の世界の美しいお姫様である“かぐや姫”が人間の世界へとやって来て、次々と魅力的な青年からの求婚を退けるものの、遂には帝(みかど)の目にも留まるという想像力を駆使したファンタジックな作品になっています。
『竹取物語』は作者不詳であり成立年代も不明です。しかし、10世紀の『大和物語』『うつほ物語』『源氏物語』、11世紀の『栄花物語』『狭衣物語』などに『竹取物語』への言及が見られることから、10世紀頃までには既に物語が作られていたと考えられます。このウェブページでは、『帝仰せ給はく、「造麻呂が家は山本近かなり。~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。
参考文献
『竹取物語(全)』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),室伏信助『新装・竹取物語』(角川ソフィア文庫),阪倉篤義 『竹取物語』(岩波文庫)
[古文・原文]
帝仰せ給はく、『造麻呂が家は山本近かなり。御狩りの行幸(みゆき)し給はむやうにて見てむや』とのたまはす。造麻呂が申すやう、『いとよきことなり。何か心もなくて侍らむに、ふと行幸して御覧ぜむ。御覧ぜられなむ』と奏すれば、帝にはかに日を定めて、御狩りに出で給うて、かぐや姫の家に入り給うて見給ふに、光満ちて清らにて居たる人あり。
『これならむ』とおぼして、逃げて入る袖をとらへ給へば、面(おもて)をふたぎてさぶらへど、初めよく御覧じつれば、類(たぐひ)なくめでたくおぼえさせ給ひて、『許さじとす』とて、率て(ゐて)おはしまさむとするに、かぐや姫答へて奏す、『おのが身は、この国に生まれて侍らばこそ使ひ給はめ。いと率ておはしまし難くや侍らむ』と奏す。
帝、『などかさあらむ。なほ率ておはしまさむ』とて、御輿(みこし)を寄せ給ふに、このかぐや姫、きと影になりぬ。はかなく、口惜しとおぼして、『げにただ人にはあらざりけり』とおぼして、『さらば御供には率ていかじ。もとの御かたちとなり給ひね。それを見てだに還りなむ』と仰せらるれば、かぐや姫もとのかたちになりぬ。
[現代語訳]
帝はおじいさんに、『造麻呂の家は山の麓に近いと聞いている。私が狩りをするように装って、かぐや姫の姿を見てみようと思う、』とおっしゃった。造麻呂が『それは良いお考えです。姫の心が警戒していない時に、ふと行幸されてご覧になるのが良いでしょう。それであれば姫の姿をご覧になれるはずです。』と申し上げると、帝は急いで日にちを決めて狩りにお出かけになり、かぐや姫の家に入って見ると、光が満ち溢れている部屋の中に清らかな姿の女性が座っていた。
『この女性であろう。』と帝は思われて、奥に逃げようとする姫の袖を掴まえると、顔を袖で隠してはいたが、最初に入った時に姫の姿をじっくりと見ていたので、並ぶ物がないほどに美しい女性だと分かった。『もう放さないぞ。』と言って、そのまま宮中に連れていこうとしたが、かぐや姫は『私がこの国に生まれた人間であれば、陛下の思い通りにすることができるでしょう。しかし、そうではないので私を無理に連れて行くのは難しいですよ。』と答えて申し上げた。
帝が、『どうしてそんなことがあるだろうか。このまま連れていくぞ。』と言って、御輿を呼び寄せると、かぐや姫はぱっと姿を消して影になってしまった。残念なことだがこれではどうしようもないと思って、『本当に普通の人間ではなかったのだな。』と思われた。『それなら一緒に連れて帰るのはやめることにした。元の姿に戻っておくれ。それを見てから帰ることにするから。』と帝がおっしゃると、かぐや姫は元の姿かたちに戻ったのである。
[古文・原文]
帝、なほめでたくおぼし召さるることせきとめ難し。かく見せつる造麻呂を悦び給ふ。さて、仕うまつる百官の人に、あるじいかめしう仕うまつる。
帝、かぐや姫を留めて還り給はむことを、飽かず口惜しくおぼしけれど、たましひを留めたる心地してなむ、還らせ給ひける。御輿に奉りて後に、かぐや姫に、
還るさのみゆき ものうく思ほえて そむきてとまる かぐや姫ゆゑ
御返事(おほんかへりこと)を、
むぐらはふ 下にも年は 経ぬる身の 何かは玉の うてなをも見む
これを帝御覧じて、いとど還り給はむそらもなくおぼさる。御心は、更に立ち還るべくもおぼされざりけれど、さりとて、夜を明かし給ふべきにあらねば、還らせ給ひぬ。
常に仕うまつる人を見給ふに、かぐや姫の傍らに寄るべくだにあらざりけり。異人(ことひと)よりはけうらなりとおぼしける人の、かれにおぼしあはすれば人にもあらず、かぐや姫のみ御心にかかりて、ただ一人住みし給ふ。由なく御方々にもわたり給はず、かぐや姫の御もとにぞ、御文を書きて通はさせ給ふ。
御返りさすがににくからず聞こえ交わし給ひて、おもしろく木草につけても御歌を詠みて遣はす。
[現代語訳]
帝は、なお今でもかぐや姫のことを愛おしく思う気持ちを押し留める事ができなかった。このようにかぐや姫の姿を見る機会を作ってくれた造麻呂のことをありがたく思ったりもした。そして竹取の翁(おじいさん)は、帝に従ってきていた文官・武官の百官を、手厚くもてなしたのである。
帝はかぐや姫を屋敷に置いたままで宮中に帰るのは、非常に残念なことだと思っていたが、自分の魂を姫の屋敷に残したままのような気持ちで都に帰っていった。御輿に乗られてから、かぐや姫に歌を詠んだ。
行幸からの帰り道は憂鬱な気持ちでいっぱいだ、これも私の命令に背いて一緒についてきてくれないかぐや姫のせいなのだよ。
かぐや姫は、返歌を詠んだ。
雑草が生い茂る貧しい家に育った私などが、玉で飾り立てられた宮殿で過ごすのは身分違いというものですよ。
この歌を見た帝は、ますます都に帰る気持ちがなくなってしまった。帝のお気持ちは宮中に帰ろうとは全く思えなかったのだが、そうと言っても、このまま夜を明かすことはできないので、嫌々ながらも帰っていった。
いつも自分に仕えてくれている女官たちを見ても、(圧倒的な美しさ・清らかさで輝いている)かぐや姫の側には寄れそうにないといった感じである。他の人よりも抜きん出て美しいと思っていた女性でも、かぐや姫と比較してしまうと同じ人とさえも思えない。ただかぐや姫のことだけが心に思われて、帝は夜も一人で過ごしていた。理由も告げずに、後宮の女性たちの元にも通わなくなり、かぐや姫の元にただ手紙を書いてお送りになっていた。
かぐや姫もそこまで帝に思われると、さすがに情の篭った返歌を返すようになってきて、帝もまた季節の木々や草花を詠んだ素敵な歌をかぐや姫へと送り続けたのである。
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