清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。
このウェブページでは、『枕草子』の『御前にて、人々とも、また、ものおほせらるるついでなどにも~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。
参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)
[古文・原文]
262段
御前にて、人々とも、また、ものおほせらるるついでなどにも、(清少納言)「世の中の腹立たしう、むつかしう、片時あるべき心地もせで、ただ、いづちもいづちも行きもしなばやと思ふに、ただの紙のいと白う清げなるに、よき筆、白き色紙、陸奥紙(みちのくがみ)など、得つれば、こよなうなぐさみて、さはれ、かくて暫しも生きてありぬべかんめり、となむおぼゆる。また、高麗縁(こうらいばし)の筵(むしろ)青うこまやかに厚きが、縁の紋(へりのもん)いとあざやかに黒う白う見えたるを、引きひろげて見れば、何か、なほこの世は、さらにさらにえ思ひ捨つまじと、命さへ惜しくなむなる」と申せば、(中宮)「いみじくはかなき事にも慰むなるかな。姥捨山(おばすてやま)の月は、いかなる人の見けるにか」など、笑はせたまふ。さぶらふ人も、「いみじうやすき息災の祈りななり」など言ふ。
さて後、ほど経て、心から思ひ乱るることありて、里にあるころ、めでたき紙二十を包みて、賜(たま)はせたり。仰事(おおせごと)には、「疾くまゐれ(とくまいれ)」など、のたまはせて、「これは、聞しめしおきたることのありしかばなむ。わろかめれば、寿命経も、え書くまじげにこそ」と、仰せられたる、いみじうをかし。思ひ忘れたりつることを、思しおかせ給へりけるは、まほただ人にてだに、をかしかべし、まいて、おろかなるべき事にぞあらぬや。心も乱れて、啓すべきかたもなければ、ただ、
(清少納言)「かけまくも かしこきかみの しるしには 鶴の齢(よはひ)と なりぬべきかな
あまりにや、と啓せさせ給へ」とて、まゐらせつ。台盤所(だいばんどころ)の雑仕(ぞうし)ぞ、御使には来たる。青き綾の単衣(ひとえ)取らせなどして、まことに、この紙を草子(そうし)に作りなど持て騒ぐに、むつかしき事も紛るる心地して、をかしと心の内にもおぼゆ。
[現代語訳]
262段
御前で、他の女房と話したり、また、中宮様が物をお話になられる時などにも、(清少納言)「世の中のことが腹立たしく、いらいらして、片時もこの世に居たくない気持ちがして、ただどこでもいいからどこかに行ってしまいたいと思う時に、普通の紙でとても白くて綺麗なものに、上等の筆、白い色紙、陸奥紙などが手に入ると、この上なく気持ちが慰められて、何はともあれ、このように暫くは生きていてもいいなと思えます。また高麗縁(こうらいべり)の、青い筵(むしろ)で念入りに厚く編んでいて、縁の紋がくっきりと黒く白く見えたので、引きひろげて見ると、何が嫌なものだろうかこの世の中というものは、やはりこの世は絶対に思い捨てることができないものだと、命まで惜しくなってしまいます。」と申し上げると、中宮様は「あまり大したことがないことで慰められるんですね。姥捨山の月は、いったいどんな人が見ていたのでしょうか。」などとお笑いになられる。仕えている女房も、「とても簡単な息災の祈りですね。」などと言う。
それから後、暫くして、心から深く思い悩むことがあって、里に下がっていた頃、中宮様から素晴らしい紙二十枚を包んで、私に賜わせられた。お手紙には、「早く参上しなさい。」などと書かれていて、「この紙は、申し出をお聞きおきになったことがあるので下されるのです。あまり上等な紙ではないから、寿命経も書けないでしょうが。」と書いておられて、とても面白い。本人さえ忘れてしまっていたことを、覚えておいでになられたのは、普通の人であっても面白いのに、まして、中宮様ともなれば疎かに思っていていいことではない。気持ちが動転してしまって、ご返事の仕様もないので、ただ、
(清少納言)「畏れ多い拝領の紙のお陰で、鶴のように千年も長生きができそうです。
あまりにも大げさでしょうか、とでも思ってお受け取り下さい。」と書いて、ご返事を差し上げた。台盤所(だいばんどころ)の雑仕(ぞうし)の女が、お使いとしてやって来たのだった。青い綾織りの単衣(ひとえ)を禄として与えなどして帰らせた後、本当に、この頂いた紙を草子にして作ったりなどして大騒ぎしているうちに、イライラした難しい気持ちも紛れるような気がして、(こんなに簡単に気分が変わるなんて)面白いものだと心の中で思っていた。
[古文・原文]
262段(終わり)
二月ばかりありて、赤衣(あかぎぬ)着たる男、畳を持て来て、「これ」と言ふ。「あれは誰そ。あらはなり」など、物はしたなく言へば、さし置きて去ぬ(いぬ)。「いづこよりぞ」と問はすれど、「まかりにけり」とて、取り入れたれば、殊更に(ことさらに)御座(ござ)といふ畳のさまにて、高麗など、いと清らなり。
心の内には、さにやあらむなんど思へど、なほおぼつかなさに、人々出だして求むれど、失せにけり。怪しがり言へど、使のなければ言ふかひなくて、所違へ(ところたがえ)などならば、おのづからまた言ひに来なむ、宮の辺に案内しにまゐらせまほしけれど、さもあらずは、うたてあべし、と思へど、なほ、誰かすずろにかかるわざはせむ、仰事なめり、と、いみじうをかし。
二日ばかり音もせねば、疑ひなくて、右京の君の許(もと)に、(清少納言)「かかる事なむある。さる事や、けしき見給ひし。忍びて有様のたまへ。さる事見えずは、かう申したりとも、な散らし給ひそ」と言ひやりたるに、(右京)「いみじう隠させ給ひし事なり。ゆめゆめ、まろが聞えたるとな後にも」とあれば、さればよと思ふもしるく、をかしうて、文を書きてまた密(みそか)に御前の高欄(こうらん)に置かせしものは、惑ひけるほどにやがてかけ落として、御階(みはし)の下に落ちにけり。
[現代語訳]
262段(終わり)
二ヶ月ほど経って、赤衣(あかぎぬ)を着た男が畳を持ってきて、「これを」と言う。「あれは誰ですか。中があらわではないですか。」などと、そっけなく言うので、畳をそのまま置いて行ってしまった。「どこから来たのですか。」と尋ねさせるけれど、「帰ってしまわれました。」と言って、畳を取り入れると、念入りに御座(ござ)という畳のように作って、高麗縁など、とても綺麗である。
心の中では、中宮様からの御下賜なのだろうかと思うけれど、やはりはっきりとしないので、使いの者を出して男を探させたけれど、どこかにいなくなっていた。不思議だと言うけれど、使いがいないのでどうしようもなく、届け先を間違えたというならば、向こうからまた言ってくるだろうと、中宮様の所に確認の使者を送りたいけれど、そうでなかった場合には居心地が悪くなると思うが、やはり、いったい誰が何の理由もなしにこんなことをするだろうかと、中宮様の仰せつけなのだろうと、とても面白い。
それから二日ほど何の音沙汰もないので、中宮様からの御下賜であることは疑いもなくて、右京の君の所に、「このような事がありました。そのような様子を御覧になりましたか。そっと様子を聞かせて下さい。もしそういう様子がなかったならば、私がこのようなお手紙を差し上げたことも、お忘れになられて下さい。」と手紙に書いて送ったところ、「誰にも知られないようにお隠しになってされたことなのです。ですから、ゆめゆめ私がこのように申し上げたことは、後日になってもおっしゃられないようにお願いします。」というので、やはり思っていた通りだったと、面白くて、中宮様へのお手紙を書いて、またこっそりと御前の高欄の所に置かせてきたのだけれど、使いの者が慌てていてそのまま下に手紙を落として、御階(みはし)の下に落ちてしまったのだった。
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