清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。
このウェブページでは、『枕草子』の『掃司まゐりて、御格子まゐる。殿司の女官、御きよめなどにまゐり果てて~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。
参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)
[古文・原文]
263段(続き)
掃司(かもんづかさ)まゐりて、御格子まゐる。殿司の女官、御きよめなどにまゐり果てて、起きさせ給へるに、花もなければ、(宮)「あな、あさまし。あの花どもは、いづちいぬるぞ」と、仰せらる。(宮)「暁に、花盗人(はなぬすびと)あり、と言ふなりつるを、なほ、枝など少し取るにやとこそ聞きつれ。誰がしつるぞ。見つや」と、仰せらる。
(清少納言)「さも侍らず。まだ暗うて、よくも見えざりつるを、白みたるものの侍りつれば、花を折るにやと、後ろめたさに言ひ侍りつるなり」と申す。(宮)「さりとも、皆はかういかでか取らむ。殿の隠させ給へるならむ」とて、笑はせ給へば、「いで、よも侍らじ。春風のして侍るならむ」と啓するを、(宮)「かう言はむとて、隠すなりけり。盗みにはあらで、いたうこそふるなりつれ」と、仰せらるるも、珍しき事にはあらねど、いみじうぞめでたき。
殿おはしませば、寝くたれの朝顔も、時ならずや御覧ぜむと、引き入る。おはしますままに、「かの花は失せにけるは。いかで、かうは盗ませしぞ。いとわろかりける女房たちかな。いぎたなくて、え知らざりけるよ」と、驚かせ給へば、(清少納言)「されど、我より先に、とこそ思ひて侍りつれ」と、忍びやかに言ふに、いと疾う聞きつけさせ給ひて、(道隆)「さ思ひつる事ぞ。世に、異人(ことひと)出でゐて見じ、宰相と、そことの程ならむと、推し量りつ」と、いみじう笑はせ給ふ。
(宮)「さりけるものを、少納言は春風におほせける」と、宮の御前のうち笑ませ給へる、いとをかし。(道隆)「虚言をおほせ侍るなり。今は山田も作るらむものを」など、うち誦(ず)ぜさせ給へる、いとなまめき、をかし。
(道隆)「さても、ねたく見つけられにけるかな。さばかり戒めつるものを。人の御方には、かかるいましめ者のあるこそ」など、のたまはす。(道隆)「春風は、そらにいとかしこうも言ふかな」など、またうち誦(ず)ぜさせ給ふ。
(宮)「ただ言(こと)には、うるさく思ひよりて侍りし。今朝のさま、いかに侍らまし」などぞ、笑はせ給ふ。小若君(こわかぎみ)、「されど、それをいと疾く(とく)見て、露に濡れたるといひける、面伏せ(おもてぶせ)なり、と言ひ侍りける」と申し給へば、いみじうねたがらせ給ふも、をかし。
さて、八、九日のほどに、まかづるを、(宮)「今少し近うなりてを」など仰せらるれど、出でぬ。いみじう常よりものどかに照りたる昼つ方、「花の心開けざるや、いかにいかに」と、のたまはせたれば、(清少納言)「秋はまだしく侍れど、夜(よ)に九度(ここのたび)のぼる心地し侍る」と、聞こえさせつ。
[現代語訳]
263段(続き)
掃司(かもんづかさ)が参上して、御格子をお上げする。殿司(とのも)の女官が掃除などをし終わってから、中宮様はお起きになられたが、花がまったく見えないので、(宮)「まぁ、驚いたわ。あの花たちは、どこに行ってしまったのですか。」とおっしゃられる。「明け方に、花盗人がいると言っていたようですが、それでも、枝などを少し取るだけなのだろうと思っていた。誰がこんなことをしたのか。お前は盗人を見たのか」とおっしゃられる。
(清少納言)「いいえ、見ておりません。まだ暗くてよく見えなかったのですが、白っぽい者の姿がいたようですので、花を折ろうとしているのかと心配になったので、声を掛けてみました」と申し上げる。(宮)「花盗人であっても、ここまで全ての花を折って持っていくだろうか。きっとお父上がお隠しになられたのでしょう。」と言ってお笑いになられるので、「いえ、まさかそんなことはしておられないでしょう。春風のせいでございましょう。」と申し伝えると、「そのように言おうと思って、隠しているのですね。盗んだのではなくて、雨にひどく降られたということなのですね。」とおっしゃられるのも、格別に優れた言葉ではないけれど、とても素晴らしいものだ。
道隆様(関白様)がいらっしゃったので、寝て乱れた朝顔も、季節はずれなものだと思って御覧になられると思って、隠れて内に入った。おいでになるとすぐに、(道隆)「あの花が無くなってしまったな。どうして、こんなにも全部盗まれてしまったのか。まったくダメな女房たちだな。寝坊の者たちばかりで、気がつかなかったのだろう。」と驚きになられたふりをしているので、(清少納言)「しかし、私よりも先に起きた人もいたのだなと思ったのでした。」と小さな声で言うと、いち早くお聞きつけになられて、(道隆)「そうだろうと思っていた。まさか、他の女房が縁にまで出てきて見ていたのではあるまい。宰相かそなたかが見ていたのだろうと推測していたぞ。」と、とてもお笑いになられる。
(宮)「そういうことでしたのに、少納言は春風のせいだと言っていました。」と、中宮様が微笑まれたのは、とても趣きがある。(道隆)「虚言をおっしゃられたのだな。今は(風も弱まる)山田を作る季節でさえあるのに。」などと吟じられる様子は、とても優雅で風情があるものである。
(道隆)「それにしても、見つけられてしまったのは情けないことだ。あれほど、見つからないように戒めていたものを。こちらには、こういったうるさい人がいらっしゃるのだから。」などとおっしゃる。(道隆)「春風とは、とっさにとても上手いことを言ったものだな。」などとおっしゃり、またあの歌を吟じられる。
(宮)「ただの言葉にしては、上手い気の利いた言葉を思いついたものですね。今朝の桜の様子は、どのようなものだったのでしょう。」などとおっしゃって、お笑いになられる。小若君(こわかぎみ)が、「けれども、それをこの方はいち早く見て、露に濡れたと詠んだ歌の面目も丸つぶれだと言ったものでした。」と申し上げると、道隆様がひどく悔しがられるのも、面白い。
それから、八日か九日の頃に、里に下がるのを、(宮)「もう少し当日が近くなってからにしなさい。」などとおっしゃられるけれど、そのまま退出した。いつもよりもとてものどかに日が照っているお昼頃、「花の心は開けないのか、どうなのかどうなのか」とおっしゃられるので(手紙に書いて送ってこられるので)、(清少納言)「秋にはまだまだ遠くございますけど、一晩に魂が九度ものぼるほどの心地がします。」と、ご返事をした。
[古文・原文]
263段(続き)
出でさせ給ひし夜、車の次第もなく、まづ、まづと、乗り騒ぐがにくければ、さるべき人と、なほ、この車に乗るさまのいと騒がしう、祭の帰さなどのやうに倒れぬべくまどふさまの、いと見苦しきに、「たださはれ、乗るべき車なくてえ参らずは、おのづから聞しめしつけて、賜はせもしてむ」など、言ひ合はせて立てる前より、押しこりて、惑ひ出でて、乗り果てて、(宮司)「かうか」と言ふに、(女房)「まだし、ここに」と言ふめれば、宮司寄り来て、「誰々おはするぞ」と問ひ聞きて、
「いと怪しかりけることかな。今は皆乗りたまひぬらむとこそ思ひつれ。こは、など、かう遅れさせ給へる。今は得選(とくせん)乗せむとしつるに、めづらかなりや」など、驚きて寄せさすれば、(女房)「さは、まづ、その御心ざしあらむをこそ、乗せ給はめ。次にこそ」と言ふ声を聞きて、(宮司)「けしからず、腹ぎたなくおはしましけり」など言へば、乗りぬ。その次には、誠に御厨子(みづし)が車にぞありければ、火もいと暗きを笑ひて、二条の宮に参り着きたり。
御輿(みこし)は、疾く入らせ給ひて、しつらひ居させ給ひけり。(宮)「ここに呼べ」と、仰せられければ、「いづら、いづら」と、右京、小左近などいふ若き人々待ちて、まゐる人ごとに見れど、なかりけり。下るるに従ひて四人づつ、御前にまゐり集ひて侍ふに、(宮)「あやし、なきか。いかなるぞ」と、仰せられけるも知らず、ある限り下り果ててぞ、辛うして見つけられて、(右京ら)「さばかり仰せらるるには、などかく遅くは」とて、ひき率て(ゐて)参るに、見れば、いつの間に、かう年ごろの御すまひのやうに、おはしましつきたるにか、と、をかし。
(宮)「いかなれば、かう、なきかと尋ぬばかりまでは見えざりつる」と、仰せらるるに、ともかくも申さねば、諸共に乗りたる人、「いとわりなしや。最果(さいはて)の車に乗りて侍らむ人は、いかでか、疾くは参り侍らむ。これもほとほとえ乗るまじく侍りつるを、御厨子(みづし)がいとほしがりて譲りて侍るなり。暗かりつるこそ、わびしかりつれ」と、笑ふ笑ふ啓するに、(宮)「行事する者の、いとあやしきなり。また、などかは、心知らざらむ人こそはつつまめ、右衛門などは言へかし」と、仰せらる。
(右衛門)「されど、いかでかは、走り先立ち侍らむ」など言ふも、かたへの人、にくしと聞くらむかし。(宮)「さまあしうて、高う乗りたりとも、かしこかるべき事かは。定めたらむさまの、やむごとなからむこそよからめ」と、ものしげに思し召したり。(清少納言)「下り侍るほどの、いと待ち遠に苦しければにや」とぞ、申しなほす。
御経のことにて、明日渡らせたまはむとて、今宵参りたり。南院の北面(きたおもて)にさしのぞきたれば、高坏(たかつき)どもに火をともして、二人三人、三、四人、さべきどち、屏風引き隔てたるもあり、几帳など隔てなどもしたり。また、さもあらで、集り居て、衣ども閉ぢ重ね、裳の腰さし、化粧するさまは更にも言はず、髪などいふもの、明日より後は、ありがたげに見ゆ、(女房)「寅(とら)の時になむ、渡らせ給ふべかなる。などか今まで参り給はざりつる。扇持たせて、求め聞ゆる人ありつ」と告ぐ。
さて、まことに寅の時かと、装束き立ちてあるに、明け果て、日もさし出でぬ。西の対の唐廂(からびさし)になさし寄せてなむ乗るべき、とて、渡殿(わたどの)へ、ある限り行くほど、まだうひうひしきほどなる今参りなどは、つつましげなるに、西の対に殿の住ませ給へば、宮にもそこにおはしまして、まづ、女房ども車に乗せさせ給ふを御覧ずとて、御簾の内に、宮、淑景舎(しげいしゃ)、三、四の君、殿の上、その御弟三所(おんおととみところ)、立ち並み(たちなみ)おはしまさふ。
[現代語訳]
263段(続き)
中宮様が二条宮におでましになられた夜、車の順番もなく、私が私がと、女房たちが騒いで乗るのが憎たらしいので、しかるべき人と語り合った。やはりこの車に乗る時の様子がとても騒がしくて、祭の帰さの後のように転ばんばかりに急いで混乱する様子が、とても見苦しいので、「ただそのようにさせておけ。私たちが乗る車がなくて、二条宮に参上できなかったら、自然と中宮様がお聞きになられて、お車も回してくださるでしょう。」などと言い合って立っている前を、他の女房たちは押し固まって、ごった返して出てきて、みんな車に乗り終わって、中宮職の役人が「これでおしまいですか。」と言うと、「まだです。ここにいます。」と答えると、役人が近寄ってきて、「誰がいらっしゃるのですか。」と尋ねて聞いて、
「とてもおかしなことがあったものです。今はもうみんな乗ってしまったものだとばかり思っていました。これは、どうしてこんなに遅れてしまわれたのですか。今度は得選(とくせん)を乗せようと思っていたのですが、珍しいことですな。」などと、驚きあきれて車を寄せさせるので、(女房)「それなら、まず、先に乗せようとしていたお方を乗せれば良いのに。その次で結構ですよ。」と言う声を聞いて、(宮司)「嫌な言い方ですね、意地悪なお方でいらっしゃる。」などと言うので、そのまま乗った。その次は、本当に御厨子(みづし)の女官の車であったので、松明の火がとても暗いのを笑いながら、二条宮へとたどり着いた。
中宮の御輿は、早くお入りになられて、お部屋を整えられて座っておられたのだった。(中宮)「少納言(清少納言)をここに呼びなさい。」とおっしゃられれば、「どこにいるのか、どこにいるのか。」と、右京、小左近などという若い女房たちが私を待って、参上する人をその度に見たけれど、姿がなかったのである。車から降りると四人ずつ、御前に集まってきたけれど、(中宮)「おかしいですね、いないのか。どうしたのか。」と心配しておっしゃって下さっていたのも知らず、女房全員が車から降りきってしまって、やっとのことで見つけられて、(右京ら)「あれほどおっしゃっておられたのに、どうしてこんなに遅くなられたのですか。」と言って、私を引き連れて御前に参上したので、辺りを見ると、いつの間に、こんなに長年暮らしている住居のように、落ち着いていらっしゃるのかと思って面白い。
(宮)「どうして、こんなにどこにいるのかと尋ね歩くほどまで、どこにもいなかったのか。」とおっしゃるが、私はあれこれと理由を申さないので、一緒に車に乗っていた人が「とてもひどいものでした。最後の車に乗って参ったのですから、どうして、早く参上することができるでしょうか。その車も危うく乗れなくなるところでしたが、御厨子の者がとても哀れに思ってくれて車を譲って下さったのです。暗くなっていたことが、情けなく思われました。」と笑いながら申し上げると、(宮)「車を回す役人の者が、とてもおかしなことをしたのですね。また、どうして、事情の分からない新参者であれば遠慮もするだろうが、右衛門などであればはっきりと役人に言えば良いのに。」とおっしゃられる。
(右衛門)「そうだとは思いますが、我勝ちにと走って先に乗ろうとするのもどうかと思いまして。」などと言うのも、傍にいる女房たちは、憎たらしいと思って聞いているであろう。(宮)「見苦しく争って、身分の高い者の車に乗ったとしても、それで偉くなるわけではあるまい。決められている順番の通りに、序列を乱さないのが良いことであるのに。」と、不快な感じで思っておられる。(清少納言)「車から降りるまでが、待ち遠しくてつらく感じるのでしょう。(だから車に早く乗ろうとして先を争い合うのでしょう。)」と申し上げた。
御経供養のことで、明日、中宮様が積善寺へ行かれるということで、その前夜に参上した。南院の北面(きたおもて)に顔を出したところ、高坏(たかつき)に火を灯して、二人三人または三人四人というように、しかるべき女房同士で、屏風を立てめぐらして隔てにしている人たちもいれば、几帳などで仕切っている人たちもいる。また、そのようではなくて、何人かで集まって、衣裳を綴じ重ねたり、裳の引き腰に刺したり、お化粧をする様子は今更言うまでもなく、髪などになると、明日から後は、もうどうでもいいといった感じに見える、(女房)「寅の時に、中宮様がお出ましだということです。どうして今まで参上しなかったのですか。扇を使いに持たせて、貴女をお探し申し上げていた人がいましたよ。」と告げてくる。
さて、本当に寅の時かと思って、身支度を整えて待っていたのに、夜もすっかり明けて、日も射してきた。西の対の唐廂(からびさし)に、車をさし寄せてそこから乗るということで、渡殿(わたどの)へ女房みんなが行く時は、まだ初々しい新参の女房などは気後れしてしまうところであるが、西の対には道隆様がお住まいになっておられるので、中宮様もそこにいらっしゃって、まず、女房たちを車にお乗せになるところを御覧になるといって、御簾の内に、中宮様、淑景舎(しげいしゃ)、三の君、四の君、母上の北の方の妹様のご三人が、ずらりと立ち並んでいらっしゃる。
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