『歎異抄』の第十三条と現代語訳

“念仏信仰・他力本願・悪人正機”を中核とする正統な親鸞思想について説明された書物が『歎異抄(たんにしょう)』である。『歎異抄』の著者は晩年の親鸞の弟子である唯円(1222年-1289年)とされているが、日本仏教史における『歎異抄』の思想的価値を再発見したのは、明治期の浄土真宗僧侶(大谷派)の清沢満之(きよざわまんし)である。

『歎異抄(歎異鈔)』という書名は、親鸞の死後に浄土真宗の教団内で増加してきた異義・異端を嘆くという意味であり、親鸞が実子の善鸞を破門・義絶した『善鸞事件』の後に、唯円が親鸞から聞いた正統な教義の話をまとめたものとされている。『先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎く』ために、この書物は書かれたのである。

参考文献(ページ末尾のAmazonアソシエイトからご購入頂けます)
金子大栄『歎異抄』(岩波文庫),梅原猛『歎異抄』(講談社学術文庫),暁烏敏『歎異抄講話』(講談社学術文庫)

[原文]

第十三条

一。弥陀の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて往生かなふべからずといふこと。この条、本願をうたがふ、善悪の宿業(しゅくごう)をこころえざるなり。よきこころのおこるも宿善のもよほすゆへなり、悪事のおもはれせらるるも悪業のはからふゆへなり。故聖人のおほせには卯毛(うもう)・羊毛のさきにいるちりばかりも、つくるつみの宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひき。

またあるとき、唯円房はわがいふことをば信ずるかと、おほせのさふらひしあひだ、さんさふらうとまふしさふらひしかば、さらばいはんことたがふまじきかと、かさねておほせのさふらひしあひだ、つつしんで領状まふしてさふらひしかば、たとへば一千人殺してんや、しからば往生は一定(いちじょう)すべしとおほせさふらひしとき、おほせにてはさふらへども、一人(いちにん)もこの身の器量にては殺しつべしともおぼへずさふらうとまふしてさふらひしかば、さてはいかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞと。

これにてしるべし、なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人殺せといはんに、すなはち殺すべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁(ごうえん)なきによりて害せざるなり。わがこころのよくて殺さぬにはあらず、また害せじとおもふとも百人・千人を殺すこともあるべしとおほせのさふらひしかば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。

そのかみ邪見(じゃけん)におちたるひとあて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこへさふらひしとき、御消息に、くすりあればとて毒をこのむべからずとあそばされてさふらふは、かの邪執(じゃしゅう)をやめんがためなり。またく悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。

持戒・持律(じかい・じりつ)にてのみ本願を信ずべくば、われらいかでか生死(しょうじ)をはなるべきやと。かかるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられさふらへ。さればとて、身にそなえざらん悪業は、よもつくられさふらはじものを、またうみ・かわに、あみをひき、つりをして世をわたるものも、野山に鹿をかり、鳥を取りて、命をつぐともがらも、商いをし、田畠(でんぱた)をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなりと。

さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまひもすべしとこそ、聖人はおほせさふらひしに、当時は後世者(ごせしゃ)ぶりして、よからんものばかり念仏まふすべきやうに、あるひは道場にはりぶみをして、なむなむのことしたらんものをば道場へいるべからずなんどどいふこと、ひとへに賢善精進の相(けんぜんしょうじんのそう)をほかにしめして、うちには虚仮(こけ)をいだけるものか。願にほこりてつくらん罪も宿業のもよほすゆへなり。

さればよきこともあしきことも業報(ごうほう)にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまひらすればこそ、他力にてはさふらへ。『唯信抄(ゆいしんしょう)』にも、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業のみなればすくはれがたしとおもふべき」とさふらうぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定(けつじょう)しぬべきことにてさふらへ。

おほよそ悪業煩悩を断じつくしてのち本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、すなはち仏になり、仏のためには五劫思惟の願(ごこうしゆいのがん)、その詮なくやましまさん。本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄具足せられてこそさふらうげなれ、それは願ほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりといふ、いかなる悪かほこらぬにてさふらうべきぞや。かへりてこころをさなきことか。

[現代語訳]

阿弥陀仏様の本願には悪人をも救済する不思議な力があるということで、(その本願に甘えたり奢ったりして)悪事を恐れずに無法な振る舞いをする者は、本願ぼこり(自分が悪人であることへの開き直り)といって往生できないということ。これは、阿弥陀仏様の本願を疑うことであり、善悪が各人の持つ過去の宿業によって抗いがたく定められているということを理解していない考え方です。善なる心が起こるのもその人の過去の宿業が引き起こしていることで、悪事をしようと思ってしまうのもその人の過去の悪業の影響のためなのです。亡くなった親鸞聖人のお言葉によれば、うさぎの毛や羊の毛の先についている小さな塵のような罪でも、前世からの因縁の宿業に拠らないものはないということを知るべきだということでした。

またある時に、親鸞聖人から唯円房は私のいうことを信じるのかと聞かれたので、もちろんでございますとお答えしたところ、そうであれば私の言うことに従うのかと重ねて聞かれたので、慎んで承知致しましたと答えました。そうであれば、一千人の人を殺してくれ、そうすれば往生することが確定すると親鸞聖人がおっしゃったので、聖人様のお言葉ですが、私のような者の器量ではただ一人でさえも殺すことができないと思いますと答えて申し上げると、ではどうしてこの親鸞が言うことに逆らわないなどと言ったのかと言われました。

これでお前も知ることができるだろう、何事も心の思うままに決められることなのであれば、(あらゆる生命にとって輪廻を解脱する究極の目的である)極楽往生のために千人を殺せと言われればすぐに殺せるはずなのである。しかし、たった一人さえも殺すことが出来ない過去からの業縁を背負っていればこそ、お前は他人を害することができないのだ。自分の心が善いから殺さないのではない、また殺したくないと思っていても百人・千人を殺さなければならない業縁もあるのだと仰られたので、私たちの心のあり方が良いのを良いと思い、悪いのを悪いと思って勝手に善悪を分別するのは、阿弥陀仏様の本願の不思議によって助けられるということ(人間の思う善悪などと救済は何の関係もないこと)を知らないことと同じなのだとおっしゃられた。

昔、間違った念仏の考え方に陥った人がいて、悪事を為したものを救済するという阿弥陀仏の本願があるのだからといって、わざと悪事を好んで為して往生の原因にしてしまえと言って、色々と悪い風聞が広まっていた時、親鸞聖人のお手紙には、薬があるからといって毒を敢えて好んで飲んではならないと書かれていて、これはあの間違った念仏をやめさせるためのお言葉でした。全くの悪は往生の障害になるものではありません。

仏法の戒律を守ることによって本願を信じることができるのならば、私たちはどうして生死を離れることができるでしょうか。このような卑しい身であっても、阿弥陀仏様の本願に出会いたてまつることで、本当に誇りに思うことができるのです。 そうであっても、自分の身に備わっていない悪業は、わざと作って備えることはできないものであり、また海や川に網を引き、釣りで魚を獲って世を渡る人も、野山で鹿を狩って鳥を捕まえて命をつなぐ人々も、商売をしたり田畑を耕して生活する人も、みんな同じ人間なのです。

然るべき強い業縁に影響されてしまえば、どのような悪事もしてしまうものだと、親鸞聖人はおっしゃられましたが、現在では来世に希望を寄せる修行者の振りをして、道徳的に良い者ばかりが念仏をするような感じで、あるいは道場に張り紙をしてこれこれのことをした者は道場に入っては成らないなどというのは、まったく表面的には賢者・善人が精進しているかのような姿を他人に示して、内面には(阿弥陀仏様でもすべての人を救えるわけではないという)嘘や偽りの心を抱いているのでしょうか。阿弥陀仏の本願に甘えて犯してしまう罪もまた、過去の宿業の影響によるものなのです。

そうであれば、良いことも悪いことも過去の宿業に任せることにして、ただひたすら阿弥陀仏様の本願に頼るということこそ、他力本願の信仰というものでしょう。『唯信抄』にも、「阿弥陀仏様がどれほどの力を持っているのかを知ってのことなのか、罪業ばかりを重ねた身であれば救われることはないとでも思うのか(阿弥陀仏様の力を人間の未熟な心で見くびるのか)」と書かれております。本願を誇りに思う心があるにつれて、他力を頼む信心も決定することになるというのです。

大体、悪業煩悩をすっかり断ち切ってしまった後に本願を信じるのであれば、本願に誇る思いなど無くても良いのです。煩悩を消滅させればすっかり仏になってしまうので、そういった悟った仏のためには、五劫の長期間にわたって思惟した阿弥陀仏様の本願はもはや必要ありません(すでに自分自身の力で煩悩を消尽して仏陀となられたほどの人物なのですから自力救済が為っているのです)。本願ぼこりだと戒めている人々も、煩悩・不浄が多く備わっているような感じであり、それは(本願ぼこりに対する批判者もまた)本願に誇っているから(甘えているから)ではないでしょうか。どのような悪を本願ぼこりというのでしょうか、どのような悪を本願ぼこりではないというのでしょうか。(そんな批判をする人は)かえって自分の心のほうが煩悩まみれなのではないですか。

Copyright(C) 2014- Es Discovery All Rights Reserved