紫式部が平安時代中期(10世紀末頃)に書いた『源氏物語(げんじものがたり)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『源氏物語』は大勢の女性と逢瀬を重ねた貴族・光源氏を主人公に据え、平安王朝の宮廷内部における恋愛と栄華、文化、無常を情感豊かに書いた長編小説(全54帖)です。『源氏物語』の文章は、光源氏と紫の上に仕えた女房が『問わず語り』したものを、別の若い女房が記述編纂したという建前で書かれており、日本初の本格的な女流文学でもあります。
『源氏物語』の主役である光源氏は、嵯峨源氏の正一位河原左大臣・源融(みなもとのとおる)をモデルにしたとする説が有力であり、紫式部が書いた虚構(フィクション)の長編恋愛小説ですが、その内容には一条天皇の時代の宮廷事情が改変されて反映されている可能性が指摘されます。紫式部は一条天皇の皇后である中宮彰子(藤原道長の長女)に女房兼家庭教師として仕えたこと、『枕草子』の作者である清少納言と不仲であったらしいことが伝えられています。『源氏物語』の“小君、御車の後にて、二条院におはしましぬ。~”が、このページによって解説されています。
参考文献
『源氏物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),玉上琢弥『源氏物語 全10巻』(角川ソフィア文庫),与謝野晶子『全訳・源氏物語 1~5』(角川文庫)
[古文・原文]
小君、御車の後にて、二条院におはしましぬ。ありさまのたまひて、『幼かりけり』とあはめ給ひて、かの人の心を爪弾きをしつつ恨み給ふ。いとほしうて、ものもえ聞こえず。
『いと深う憎み給ふべかめれば、身も憂く思ひ果てぬ。などか、よそにても、なつかしき答へばかりはし給ふまじき。伊予介に劣りける身こそ』
など、心づきなしと思ひてのたまふ。ありつる小袿を、さすがに、御衣の下に引き入れて、大殿籠もれり。小君を御前に臥せて、よろづに恨み、かつは、語らひ給ふ。
『あこは、らうたけれど、つらきゆかりにこそ、え思ひ果つまじけれ』
とまめやかにのたまふを、いとわびしと思ひたり。
[現代語訳]
小君をお車の後ろに乗せて、二条院にお帰りになられた。今夜の経緯をお話になられて、『お前で幼稚であった(お前の姉と会うのに役に立ってくれなかった)』と軽んじられて、冷たく振る舞うあの女の気持ちをお恨みなさる。源氏が気の毒で、何にも申し上げる事ができない。
『姉上は私の事をとてもひどく嫌っておられるようなので、我が身もすっかり嫌になってしまった。どうして逢って下さらないにしても、親しい返事ぐらいはして下さらないのだろうか。伊予介にも及ばない情けないわが身だ』
などと、恨めしく思っておっしゃる。さっき持ってきた薄い着物を、そうは言うものの、お召物の下に引き入れてお寝みになった。小君をお側に寝かせて、あれこれ恨み言をいいながらも、愛しい気持ちについてもお話しされる。
『お前は可愛いのだけれど、つれない冷たい女の弟だと思うと、いつまでかわいがってやる事ができるだろうか』
と源氏が真面目におっしゃるので、小君はとても辛く思っている。
[古文・原文]
しばしうち休み給へど、寝られ給はず。御硯急ぎ召して、さしはへたる御文にはあらで、畳紙に手習のやうに書きすさび給ふ。
『空蝉の 身をかへてける 木のもとに なほ人がらの なつかしきかな』
と書き給へるを、懐に引き入れて持たり。かの人もいかに思ふらむと、いとほしけれど、かたがた思ほしかへして、御ことつけもなし。かの薄衣は、小袿のいとなつかしき人香に染めるを、身近くならして見ゐ給へり。
小君、かしこに行きたれば、姉君待ちつけて、いみじくのたまふ。
[現代語訳]
しばらくの間、横になり休んでおられたが、眠ることができない。御硯を急に用意させて、丁寧なお手紙ではなくて、畳紙に手習いのように思うままに書き流しをされている。
『蝉が殻を脱ぐように、衣を脱ぎ捨てて逃げ去っていったつれないあなたですが、やはりそのお人柄が懐かしく思われるのです。』
とお書きになられたのを、懐に入れて持ち歩いた。あの女はどう思っているのだろうかと、愛おしく思うが、色々お思い返しになられるばかりで、特別な言伝てもない。あの薄衣は小袿(こうちぎ)であり、とても懐かしい人の香りが染み込んでいたので、それをいつも側近くに置いて見ていらっしゃった。
小君があちらに行くと、姉君が待ち受けていて、厳しい口調で言われた。
[古文・原文]
『あさましかりしに、とかう紛らはしても、人の思ひけむことさりどころなきに、いとなむわりなき。いとかう心幼きを、かつはいかに思ほすらむ』
とて、恥づかしめ給ふ。左右に苦しう思へど、かの御手習取り出でたり。さすがに、取りて見給ふ。かのもぬけを、いかに、伊勢をの海人のしほなれてや、など思ふもただならず、いとよろづに乱れて。
西の君も、もの恥づかしき心地してわたり給ひにけり。また知る人もなきことなれば、人知れずうちながめてゐたり。小君の渡り歩くにつけても、胸のみ塞がれど、御消息もなし。あさましと思ひ得る方もなくて、されたる心に、ものあはれなるべし。
つれなき人も、さこそしづむれ、いとあさはかにもあらぬ御気色を、ありしながらのわが身ならばと、取り返すものならねど、忍びがたければ、この御畳紙の片つ方に、
『空蝉の 羽に置く 露の木隠れて 忍び忍びに 濡るる袖かな』
[現代語訳]
『恥ずかしい事であったのに、何とか人目をごまかしても、他人の想像はどうすることもできない、本当に困っているのですよ。本当にこのような幼く浅はかな考えをあなたはしているが、(源氏の君は)一体どうお思いになっていらっしゃるのだろうか』
と言って、小君をお叱りになる。どちらからも叱られて辛く思うが、あの源氏の君の手すさび書きを取り出して見せた。弟を叱りはしたが、さすがの空蝉もこの書は手に取って御覧になられた。あの脱ぎ捨てた小袿をどのようにされたのか、『伊勢をの海人』のように汗臭くなかっただろうか、と思うと気が気でなくなり、いろいろ思い乱れてしまう。
西の君も、何となく恥ずかしい気持ちになってお帰りになった。他に知っている人はいないので、一人で物思いに耽っておられた。小君が行き来するのだが、胸が締めつけられるような感じがするばかりで、お手紙はない。男の冷たさ気づく方法もなくて、いつも陽気な性格ではあるが、どことなく悲しい思いをしているようでもある。
つれない女(空蝉)も、表面的には落ち着いてはいるが、源氏の君の並々ではないご様子を見て、結婚する前のわが身であったならと、昔に返れるものでもないが、そのもしもの思いに堪えることができず、この懐紙の片端に、
『空蝉の羽についている露が、木に隠れて見えないように、私もひそかにあなたを思って、涙で袖を濡らしているのですよ』
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