『歎異抄』の第十四条と現代語訳

“念仏信仰・他力本願・悪人正機”を中核とする正統な親鸞思想について説明された書物が『歎異抄(たんにしょう)』である。『歎異抄』の著者は晩年の親鸞の弟子である唯円(1222年-1289年)とされているが、日本仏教史における『歎異抄』の思想的価値を再発見したのは、明治期の浄土真宗僧侶(大谷派)の清沢満之(きよざわまんし)である。

『歎異抄(歎異鈔)』という書名は、親鸞の死後に浄土真宗の教団内で増加してきた異義・異端を嘆くという意味であり、親鸞が実子の善鸞を破門・義絶した『善鸞事件』の後に、唯円が親鸞から聞いた正統な教義の話をまとめたものとされている。『先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎く』ために、この書物は書かれたのである。

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金子大栄『歎異抄』(岩波文庫),梅原猛『歎異抄』(講談社学術文庫),暁烏敏『歎異抄講話』(講談社学術文庫)

[原文]

第十四条

一。一念に八十億劫(はちじゅうおくごう)の重罪を滅すと信ずべしといふこと。この条は、十悪・五逆の罪人、日ごろ念仏をまふさずして、命終(みょうじゅ)のときはじめて善知識のをしへにて、一念まふせば八十億劫のつみを滅し、十念まふせば十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。これは十悪・五逆の軽重をしらせんがために、一念・十念といへるが滅罪の利益なり。

いまだわれらが信ずるところにおよばず。そのゆへは、弥陀の光明に照らされまひらすゆへに、一念発起(いちねんほっき)するとき金剛の信心(こんごうのしんじん)をたまはりぬれば、すでに定聚(じょうじゅ)のくらゐにおさめしめたまひて、命終(みょうじゅ)すればもろもろの煩悩悪障(ぼんのうあくしょう)を転じて、無生忍(むしょうにん)をさとらしめたまふなり。

この悲願ましまさずば、かかるあさましき罪人、いかでか生死(しょうじ)を解脱すべきとおもひて、一生のあひだ、まふすところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ徳を謝すとおもふべきなり。念仏まふさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜんは、すでにわれとつみをけして往生せんとはげむにてこそさふらうなれ。もししからば、一生のあひだおもひとおもふこと、みな生死のきづなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転せずして往生すべし。

ただし業報(ごうほう)かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病悩苦痛をせめて、正念(しょうねん)に住せずしてをはらん、念仏まふすことかたし。そのあひだのつみをばいかがして滅すべきや。つみきえざれば往生はかなふべからざるか。摂取不捨(せっしゅふしゃ)の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて罪業をおかし念仏まふさずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。

また念仏のまふされんも、ただいまさとりをひらかんずる期(ご)のちかづくにしたがひても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそさふらはめ。つみを滅せんとおもはんは自力のこころにして、臨終正念(りんじゅうしょうねん)といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてさふらうなり。

[現代語訳]

たった一回の念仏だけで、八十億劫という無限に多い数の重罪を滅ぼすことができると信じること。このことは、十悪・五逆という最も重たい罪を犯した罪人が、日ごろは念仏などしないのに、(刑罰などで)命が無くなってしまう時にはじめて偉い高徳の僧侶の教えで、一回念仏を唱えれば八十億劫の罪が無くなり、十回念仏を申せばその十倍の八百億劫の罪が無くなり極楽往生することができるということによる。これは十悪・五逆の罪の軽重を教えるために、一念が八十億劫の罪を消し、十念が八百億劫の罪を消すという滅罪の利益に例えたものである。

しかし、(こういった滅罪の例え)は私たちの信じていることには及ばないものだ。その理由は、阿弥陀仏様の輝かしい光明に照らされて、その光で一念発起の信仰心が起こる時には、私たちは金剛石(ダイヤモンド)のように極めて固い信仰心を賜っているので、既に阿弥陀仏様は必ず極楽往生できる地位に私たちを置いてくださっていると言える。私たちの命が終われば(死ねば)、生前に持っていたあらゆる煩悩と悪障が善因へと転換して、生滅を超越した永遠不変の真理を悟らせて下さるのだ。

阿弥陀仏様の悲願が無かったならば、このような浅ましい罪人である私たちが、どのようにして煩悩・苦悩まみれの生死を解脱することなどできるだろうかと思うと、一生の間、唱え続ける念仏は、すべて阿弥陀如来様の偉大な慈悲の恩徳に感謝するためのものと思わなければならない。念仏を唱える度に、罪が消えていくと信じるのは、既に自力で罪を消して極楽往生しようと懸命に励むのと一緒のことである。もしそのような自力救済であれば、一生の間、思い想うことはすべて煩悩・苦悩に満ちた生死の原因になってしまうので、命が尽きるまで念仏をやめずに懸命に唱え続けることで極楽往生しなければならない。

しかし、(前世の因縁も関係する)人間の業報を自力でどうこうしようとすることには限界があるので、どのような不思議なこと(想定外のこと)に遭うかも分からず、また病気の悩みや苦痛が酷くて、安らかな正気の状態で死ぬことができないこともあり、そういった時には念仏を唱えることができないのである。その間の罪を、どのようにして消したらいいのだろうか。罪が消えなかったら、極楽往生することはできないのか。(阿弥陀仏様に帰依すれば往生できないことなどない)阿弥陀仏様のあらゆるものを救い取って決して見捨てることのない本願を頼みにして信仰すれば、どのような想定外のことがあって罪業を犯し、念仏を唱えられずに死ぬとしても、速やかに極楽往生を遂げることはできるのだ。

また(臨終の時に盛んに)念仏が唱えられるのも、今、悟りを開いて仏になる時が近づくに従って、ますます阿弥陀仏様を頼みにしてその御恩に感謝するようになっていくからである。罪を消したいと思うのは自力救済の心に過ぎず、それは死ぬ間際に安らかな正気でありたい(死ぬ直前に自力の念仏を唱えたい)と願う人の本意でもあるが、こういった人は結局、(自分の力で極楽往生を決定したいという不遜な願いを抱いているので)他力本願の信心がない人なのだ。

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