清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。
このウェブページでは、『枕草子』の『男は、女親亡くなりて、男親のひとりある、いみじう思へど~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。
参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)
[古文・原文]
299段
男は、女親亡くなりて、男親のひとりある、いみじう思へど、心わづらはしき北の方出で来て後は、内にも入れたてず、装束などは、乳母(めのと)、また故上(こうえ)の御人どもなどして、せさす。
西、東の対のほどに客人(まろうど)居(ゐ)など、をかしう、屏風、障子の絵も、見所ありて住まひたり。殿上のまじらひのほど、口惜しからず人々も思ひ、上も、御気色よくて、常に召して、御遊びなどのかたきに思しめしたるに、なほ、常に物嘆かしく、世の中、心にあはぬ心地して、好き好きしき心ぞ、かたはなるまであべき。
上達部(かんだちめ)のまたなきさまに、もてかしづかれたる妹一人(いもうとひとり)あるばかりにぞ、思ふ事うちかたらひ、慰め所なりける。
300段
ある女房の、遠江(とおとうみ)の子なる人をかたらひてあるが、同じ宮人をなむ、忍びてかたらふと聞きて、恨みければ、「親などもかけて誓はせ給へ。いみじき虚言(そらごと)なり。夢にだに見ず」となむ言ふは、いかが言ふべき、と言ひしに、
誓へ君 遠江の神かけて むげに浜名の 橋見ざりきや
[現代語訳]
299段
男で、女親が亡くなって、男親だけになった人が、その息子をとても愛しているのだが、性格の難しい北の方を妻に迎えてから後は、部屋の内には入れさせず、装束などは、乳母とか、亡くなった北の方についていた女房たちに世話をさせる。
西や東の対のあたりに、風情ある感じで作っている客間など、屏風や障子の絵も見事な部屋に住んでいる。殿上人として勤めているのだが、しっかりしている人だと人々も思い、帝の覚えも良くて、いつも召し出して、お遊びの相手だと思っていらっしゃるのだが、やはり、いつも何か嘆いていて、世の中は思い通りにならないものだという気持ちがあって、色好みの心が、常軌を逸するほどに強いらしい。
上達部の元に嫁いで、とても大事にされている妹が一人いるが、この妹には自分の思っていることを率直に語り合い、心の慰めになっていた。
300段
ある女房の、遠江(とおとうみ)の守の息子である人と親しくなっていたのだが、相手の男が同じ宮に仕える女房と、密かに親密になっていると聞いて、恨んだところ、「親の名に賭けてという形で誓わせれば良い。ひどい嘘の噂話です。夢でさえ逢ったことはありません」と言うが、どのように言い返したら良いでしょうか、と言うので、
誓へ君 遠江の神かけて むげに浜名の 橋見ざりきや
(遠江の守・神の名に賭けて、本当に浜名の橋=女を見なかったのだと誓いなさい)
[古文・原文]
301段
便(びん)なき所にて、人に物を言ひけるに、胸のいみじう走りけるを、「など、かくある」と言ひける人に、
逢坂(おうさか)は 胸のみ常に 走り井の 見つくる人や あらむと思へば
302段
「まことにや、やがては下る」と言ひたる人に、思ひだにかからぬ山のさせも草誰か伊吹の里は告げしぞ
[現代語訳]
301段
都合の悪い所で、男に逢って物を言ったのだが、胸がひどく心配で騒いだのを、「どうして、そのようにそわそわするのか」と言った男に、
逢坂(おうさか)は 胸のみ常に 走り井の 見つくる人や あらむと思へば
(逢坂では胸がいつも騒いでいるものです、逢坂の走り井に私を見つけた人がいるのかと思えば)
302段
「本当ですか、近いうちに下向するというのは」と言った人に、
思ひだに かからぬ山の させも草 誰か伊吹の 里は告げしぞ
(思っても見なかったことです、誰が伊吹の里に下向すると告げたのですか)
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