清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。
このウェブページでは、『枕草子』の『うちとくまじきもの えせ者。あしと人に言はるる人。さるは、よしと人に言はるる人よりも~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。
参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)
[古文・原文]
290段
うちとくまじきもの
えせ者。あしと人に言はるる人。さるは、よしと人に言はるる人よりも、うらなくぞ見ゆる。舟の道。
日のいとうららかなるに、海の面(おもて)のいみじうのどかに、浅緑の打ちたるを引き渡したるやうにて、いささか恐ろしき気色もなきに、若き女などの、袙(あこめ)、袴など着たる、侍の者の若やかなるなど、櫓(ろ)といふ物押して、歌をいみじう歌ひたるは、いとをかしう、やむごとなき人などにも見せ奉らまほしう思ひ行くに、風いたう吹き、海の面ただあしにあしうなるに、物もおぼえず、泊まるべき所に漕ぎ着くるほどに、舟に波のかけたるさまなど、片時に、さばかり和(なご)かりつる海とも見えずかし。
思へば、船に乗りてありく人ばかり、あさましうゆゆしきものこそなけれ。よろしき深さなどにてだに、さるはかなき物に乗りて、漕ぎ出づべきにもあらぬや。まいて、そこひも知らず、千尋(ちひろ)などあらむよ。物をいと多く積み入れたれば、水際は、ただ一尺ばかりだになきに、下衆(げす)どもの、いささか恐ろしとも思はで走りありき、つゆあしうもせば沈みやせむと思ふを、大きなる松の木などの、二、三尺にて丸なる、五つ六つ、ほうほうと投げ入れなどするこそ、いみじけれ。
屋形(やかた)といふもののかたにて押す。されど奥なるは、頼もし。端(はた)にて立てる者こそ、目くるる心地すれ。早緒(はやお)とつけて、櫓とかにすげたる物の弱げさよ。かれが絶えば、何にかならむ、ふと落ち入りなむを、それだに太くなどもあらず。
わが乗りたるは、きよげに造り、妻戸(つまど)あけ、格子上げなどして、さ水とひとしうをりげになどあらねば、ただ家の小さきにてあり。異船(ことふね)を見やるこそ、いみじけれ。遠きはまことに笹の葉を作りて、うち散らしたるにこそいと能う似たれ。泊りたる所にて、舟ごとにともしたる火は、またいとをかしう見ゆ。
はし舟とつけて、いみじう小さきに乗りて漕ぎありく早朝(つとめて)など、いとあはれなり。「あとの白浪」は、誠にこそ消えもて行け。よろしき人は、なほ乗りてありくまじき事とこそおぼゆれ。徒歩路(かちじ)もまた恐ろしかなれど、それは、いかにもいかにも地(つち)に着きたれば、いと頼もし。
海はなほいとゆゆしと思ふに、まいて、海女のかづきしに入るは、憂きわざなり。腰に付きたる緒の絶えもしなば、いかにせむとならむ。男(をのこ)だにせましかば、さてもありぬべきを、女はなほ、おぼろけの心ならじ。舟に男は乗りて、歌などうち歌ひて、この栲縄(たくなわ)を海に浮けてありく、危ふく後ろめたくはあらぬにやあらむ。のぼらむとて、その縄をなむ引くとか。惑ひ繰り入るるさまぞ、理(ことわり)なるや。舟の端をおさへて、放ちたる息などこそ、まことに唯見る人だにしほたるるに、落し入れて漂ひありく男は、目もあやにあさましかし。
[現代語訳]
290段
打ち解けにくいもの(気が許せないもの)
身分が卑しい者。悪人だと人に言われている人。そういった人は、善人だと人に言われている人よりも、裏がないようにも見える。船旅。
日がとてもうららかに照っていて、海面がとてものどかで(波もなく)、浅緑の打って光沢を出した衣を引き延ばしたような感じで、まったく恐ろしい様子もないのに、若い女などの、袙(あこめ)に袴などを着た姿や、侍の者で若々しいのなどが、櫓(ろ)という物を押して、歌を盛んに歌っているのは、とても面白くて、身分の高い人などにもお見せ申し上げたいと思って行くと、風がひどく吹いて、海面がたちまち波立って荒れてくるので、物も考えられないほど怖くて、舟が泊まるべき所に漕ぎ着くまでの間、舟に波がかかる様子など、一瞬のうちに、あれほど穏やかだった海とも見えないものだ。
思えば、船に乗ってあちこち行く人ほど、あきれるほどに恐ろしいものはない。ちょうど良いくらいの深さでさえも、そのような頼りない物に乗って、漕ぎ出していけるものではない。まして、海は底がどれくらい深いか分からず、千尋(ちひろ)まで遥か遠くに広がっているというのだから。物をとても多く積み込んでいるので、水際はわずか一尺くらいしかないのに、下衆(げす)どもは、まったく恐ろしいとも思わないで走り回っており、ほんの少しでも悪くすれば沈んでしまうと思うのだが、大きな松の木などの、二~三尺の長さで丸いものを、五つ六つ、ポンポンと舟に投げ入れなどするのは、恐ろしいものだ。
舟の上にある屋形(やかた)というものの側で櫓を押す。しかし、その奥にいるのは、頼もしいものだ。屋形の側に立っている者は、見るだけで目がくらむような心地がする。早緒(はやお)と言って、櫓とかにすげた物の弱そうな感じよ。それが切れれば、何にもならない、すぐに海に落ち入ってしまうだろうが、それなのに早緒は太くなどもないのである。
私が乗った舟は、綺麗に造ってあり、妻戸(つまど)を開け、格子を上げなどして、そんなに水と等しい高さにいるような感じではないので、ただ小さな家の中にいるようである。違う船(ことふね)を見てみると、恐ろしいものだ。遠い所の船は、本当に笹の葉で作った船を、あちこち散らしているのに似ている。舟泊まりの所で、舟ごとに灯した明かりは、またとても風情があるように見える。
はし舟と言って、とても小さい舟に乗って漕ぎ回る。その早朝の様子など、とてもしみじみとしている。「あとの白浪」は、(歌に詠まれているように)本当にすぐに消えていってしまうものだ。身分の高い人は、やはり舟に乗ってあちこち動き回るべきではないと思われる。陸の徒歩の旅路も、また恐ろしいものではあるが、それは、何といっても足が地に着いているのだから、とても安心なのである。
海はやはりとても恐ろしいもののように思われるのに、まして、海女が獲物を捕りに潜るのは、大変つらいことである。腰に付いている紐が切れでもしたら、どうするのだろうか。せめて男がするのであれば、まだ良いのだろうが、女はやはり、普通の落ち着いた心ではないだろう。舟に男は乗って、歌などを歌いながら、海女の栲縄(たくなわ)を海に浮かべて動き回るのは、危なくて心配なことだと思わないのだろうか。海女が舟に上って来る時には、その縄を引くのだという。男が慌てて縄を繰り入れていく様子は、もっともなことである。海女が舟の端を押さえて、放つ苦しそうな息など、本当にただ見ているだけの人だって涙がこぼれるくらいなのに、海女を海に落とし潜らせて海を舟で漂っている男は、全くあきれたもので情けない。
[古文・原文]
291段
衛門の尉(えもんのじょう)なりける者の、えせなる男親を持たりて、人の見るに面伏せ(おもてぶせ)なりと、苦しう思ひけるが、伊予の国よりのぼるとて、波に落し入れけるを、人の心ばかりあさましかりけることなしと、あさましがるほどに、七月十五日、盆奉るとていそぐを見給ひて、道命阿闍梨(どうみょうあじゃり)、
わたつ海に 親おし入れて この主の 盆する見るぞ あはれなりける
と詠み給ひけむこそ、をかしけれ。
292段
また傅(ふ)の殿の御母上とこそは、普門といふ寺にて八講(はっこう)しける、聞きて、またの日、小野殿(おのどの)に人々いと多く集りて、遊びし、詩(ふみ)作りてけるに、
薪(たきぎ)こることは昨日(きのふ)に尽きにしをいざ斧(をの)の柄はここに朽たさむ
と詠み給ひたりけむこそ、いとめでたけれ。ここもとは、打聞(うちぎき)になりぬるなめり。
[現代語訳]
291段
衛門の尉(えもんのじょう)になった者が、身分の低い男親を持っていて、世間の人が見ると顔向けできない恥になると、苦しく思っていたが、伊予の国から都にのぼる途中で、海の波に男親を落とし入れたのを、人の心ほどあきれたものはないと、世間の人々があきれかえっているほどに、その衛門の尉が七月十五日、その男親の供養のための盆のお供えを急いでしているのを御覧になって、道命阿闍梨(どうみょうあじゃり)が、
わたつ海に 親おし入れて この主の 盆する見るぞ あはれなりける(海に自分の親を落として死なせておいて、この男が自ら親の供養だといって準備しているのを見るのは、情けないことだな)
とお詠みになったそうだが、面白いことだ。
292段
また、傅(ふ)の殿の御母上のお歌だが、普門という寺で法華八講(はっこう)が催されたのを聞いて、翌日、小野殿(おのどの)に人々がたくさん集まって、音楽で遊んで、詩を作った時に、
薪(たきぎ)こることは昨日(きのふ)に尽きにしをいざ斧(をの)の柄はここに朽たさむ
とお詠みになったそうだが、とても素晴らしい。この部分は、打聞(うちぎき)になってしまったようである。
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