『歎異抄』の第十五条と現代語訳

“念仏信仰・他力本願・悪人正機”を中核とする正統な親鸞思想について説明された書物が『歎異抄(たんにしょう)』である。『歎異抄』の著者は晩年の親鸞の弟子である唯円(1222年-1289年)とされているが、日本仏教史における『歎異抄』の思想的価値を再発見したのは、明治期の浄土真宗僧侶(大谷派)の清沢満之(きよざわまんし)である。

『歎異抄(歎異鈔)』という書名は、親鸞の死後に浄土真宗の教団内で増加してきた異義・異端を嘆くという意味であり、親鸞が実子の善鸞を破門・義絶した『善鸞事件』の後に、唯円が親鸞から聞いた正統な教義の話をまとめたものとされている。『先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎く』ために、この書物は書かれたのである。

参考文献(ページ末尾のAmazonアソシエイトからご購入頂けます)
金子大栄『歎異抄』(岩波文庫),梅原猛『歎異抄』(講談社学術文庫),暁烏敏『歎異抄講話』(講談社学術文庫)

[原文]

第十五条

一。煩悩具足の身をもて、すでにさとりをひらくといふこと。この条、もてのほかのことにさふらう。即身成仏(そくしんじょうぶつ)は真言秘教(しんごんひきょう)の本意、三蜜行業(さんみつぎょうごう)の証果(しょうか)なり。六根清浄(ろっこんしょうじょう)はまた法花一乗(ほっけいちじょう)の所説、四安楽(しあんらく)の行の感徳なり。これみな難行上根(なんぎょうじょうこん)のつとめ、観念成就(かんねんじょうじゅ)のさとりなり。

来生(らいしょう)の開覚(かいかく)は他力浄土の宗旨、信心決定(しんじんけつじょう)の通(みち)故(ゆえ)なり。これまた易行下根(いぎょうげこん)のつとめ、不簡善悪(ふけんぜんあく)の法なり。おほよそ、今生(こんじょう)においては煩悩悪障(ぼんのうあくしょう)を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言・法花を行ずる浄侶(じょうりょ)、なほもて順次生(しょう)のさとりをいのる。

いかにいはんや、戒行(かいぎょう)・恵解(えげ)ともになしといへども、弥陀の願船(がんせん)に乗じて生死の苦海を渡り、報土(ほうど)のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲(こくうん)はやくはれ、法性(ほっしょう)の覚月(かくげつ)すみやかにあらはれて、尽十方(じんじっぽう)の無礙(むげ)の光明に一味にして、一切の衆を利益せんときにこそ、さとりにてはさふらへ。

この身をもてさとりをひらくとさふらうなるひとは、釈尊のごとく種々の応化(おうげ)の身をも現じ、三十二相・八十随形好(さんじゅうにそう・はちじゅうずいぎょうこう)をも具足して、説法利益さふらうにや。これをこそ今生(こんじょう)にさとりをひらく本(ほん)とはまふしさふらへ。『和讃(わさん)』にいはく、「金剛堅固(こんごうけんご)の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護(しんこうしょうご)して、ながく生死をへだてける」とはさふらうは、信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまはざれば、六道に輪廻すべからず。

しかれば、ながく生死をばへだてさふらうぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや、あはれにさふらうをや。浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひさふらうぞとこそ、故聖人のおほせにはさふらひしか。

[現代語訳]

煩悩に満ちたこの身のままで、既に悟りを開いて仏陀になっているということ。このことは、もっての外のことである。生身のままで仏陀となる即身成仏は、空海の真言密教の根本であり、真言密教の身体・口・心に関する厳しい修行実践の結果なのだ。全ての感覚・精神が清浄となる六根清浄は、最澄の法華一乗の教えが説くところのものであり、心身を安楽にするための四つの行の結果として得られる功徳のことである。これは全て難しい苦行、生まれつき賢明な人の勤めで、観念の思惟する力によって達成できる悟りである。

来世の極楽浄土に生まれ変わってそこで悟りを開けるというのが浄土真宗の宗旨であり、それが(他力本願を成就させる)信心決定の道でもある。これはまた易しい行、愚かな大衆でもできる勤めで、善人でも悪人でも区別なく救われる法なのだ。大体、この世の俗世で煩悩や悪障を断絶することは極めて難しいので、真言密教や法華経の修行をしている賢明で清浄な僧侶でさえも、来世での悟り(六根清浄・即身成仏)を祈っているのである。

ましてや戒律を守る力や悟りを開く智慧のない凡夫にとっては悟りは遠い、だがそういった凡夫であっても、阿弥陀仏様の本願の船に乗って生死の苦海を渡り、極楽浄土の彼岸に到達すれば、煩悩の黒雲はすぐに晴れて、法性を帯びた真理の月がたちまち現れて、あらゆる方角を照らして煩悩・悪障を打ち消す光明の中に入り、あらゆる衆生・生物に利益を与える時に、ようやく悟りを開くことができる。

我が身を持って悟りを開くというような人は、お釈迦様のように様々な形に変化して姿を現し、お釈迦様の心身の特徴である三十二相・八十随形好といった特徴をも備えて、衆生に説法して利益をもたらせるとでもいうのだろうか。こういった奇跡こそ、現世において悟りを開く者の本質とでも申すのだろう。親鸞聖人の『和讃』では、「金剛石のように堅固な信心が定まった時を待って、阿弥陀仏様の衆生救済の光が包み込み、永遠に生死から隔てて下さる」とおっしゃっていたが、信心が定まった時に、阿弥陀仏様は信者を救済の光で包み込んで決して見捨てることがないので、六道をぐるぐると輪廻して生まれ変わることもなくなるのである。

そうであれば、衆生を永遠に生死から隔てることができるのだ。このように知識として知ることを、実際に悟ることを混同してしまうのは、憐れなことだと思う。浄土真宗の教えでは、現世では阿弥陀仏様の本願を信じて、極楽浄土に行ってから初めて悟りを開くものだと習ったと、故親鸞聖人はおっしゃっておられた。

Copyright(C) 2014- Es Discovery All Rights Reserved