“念仏信仰・他力本願・悪人正機”を中核とする正統な親鸞思想について説明された書物が『歎異抄(たんにしょう)』である。『歎異抄』の著者は晩年の親鸞の弟子である唯円(1222年-1289年)とされているが、日本仏教史における『歎異抄』の思想的価値を再発見したのは、明治期の浄土真宗僧侶(大谷派)の清沢満之(きよざわまんし)である。
『歎異抄(歎異鈔)』という書名は、親鸞の死後に浄土真宗の教団内で増加してきた異義・異端を嘆くという意味であり、親鸞が実子の善鸞を破門・義絶した『善鸞事件』の後に、唯円が親鸞から聞いた正統な教義の話をまとめたものとされている。『先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎く』ために、この書物は書かれたのである。
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金子大栄『歎異抄』(岩波文庫),梅原猛『歎異抄』(講談社学術文庫),暁烏敏『歎異抄講話』(講談社学術文庫)
[原文]
第十七条
一。辺地往生(へんじおうじょう)をとぐるひと、つゐには地獄におつべしといふこと。この条、なにの証文(しょうもん)にみへさふらうぞや。学生(がくしょう)だつるひとのなかに、いひいださるることにてさふらうなるこそ、あさましくさふらへ。経論正教(きょうろんしょうぎょう)をばいかやうにみなされてさふらうらん。
信心かけたる行者は、本願をうたがふによりて、辺地に生じてうたがひのつみをつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまはりさふらへ。信心の行者すくなきゆへに、化土(けど)におほくすすめいれられさふらうを、つゐにむなしくなるべしとさふらうなるこそ、如来に虚妄をまふしつけまひらせられさふらうなれ。
[現代語訳]
辺境の浄土へ行ってしまった人は、最後に地獄に堕ちるということ。このことは、どの証拠の文章に書かれているのでしょうか。学者ぶっている人の中で言い出されたことで、情けない間違いです。正しい教えが書かれている経典・注釈をどのように解釈して言っているのでしょうか。
信心の欠けた行者は、阿弥陀仏様の本願の効力を疑うことで、辺境の浄土に生まれて疑った罪を償った後に、真の極楽浄土に生まれて悟りを開けると承っています。(阿弥陀仏様の本願を信じる)信心の行者が少ないため、大勢の人にいったん仮の浄土に行くことを勧められたのですが、それを最後には地獄に堕ちるとまで申してしまうのは、阿弥陀如来様に嘘偽りの冤罪を申し付けてしまうようなこと(大きな間違い)なのです。
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