20.元良親王 わびぬれば〜 小倉百人一首

優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『元良親王 わびぬれば〜』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

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鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

[和歌・読み方・現代語訳]

わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ

元良親王(もとよししんのう)

わびぬれば いまはたおなじ なにわなる みをつくしても あわんとぞおもう

これほどに苦しいのであれば、今はもう破滅したも同じだ。難波にある澪標(みおつくし)のように、わが身を破滅させてでもあなたに逢いたいと思っている。

[解説・注釈]

元良親王(890-943)は陽成天皇の第一皇子だが、父の政治的な失脚によって皇太子となる可能性は潰えた。『元良親王集』『大和物語』では多くの女性と恋愛関係に落ちる色好みの美男子として描かれているが、『13番 陽成院』『77番 崇徳院』と並んで政治的に不遇・絶望を託った皇族には、成就しない大恋愛の悲しみ・葛藤を詠んだ歌(政治的な情念・悔しさの置き換えか)が多く見られる。

難波(現大阪府)の中洲に立てられている『澪標(みおつくし)』が、『身を尽くし』の掛詞(かけことば)として効果的に用いられた歌だが、澪標というのは船に航路を示すための標識のことである。澪標は川の水深が浅くて船が航行できない場所と、水の深さが増して航行可能になる場所との境界線に設けられることが多い。川・海の水に浸かっている『澪標』が、“水”を“涙”に見立てる想像力によって、『苦しい恋をしている自分』の象徴になっているのである。

元良親王は、左大臣・藤原時平の娘である褒子(ほうし)に恋い焦がれていたが、この褒子は時平が醍醐天皇に入内させようとして、宇多上皇から強引に奪われたという複雑な事情を抱えた女性であった。時の天皇と上皇が争い合って、許嫁を横から奪われた天皇が遺恨を残しているような女性(褒子)を好きになって恋をするということは、元良親王にとっては『身の破滅』に直結していた。しかし、わが身を滅ぼしても死んでしまっても逢いたい(密通したい)と思うほどに、元良親王は褒子という女性に激烈な情愛を寄せていたのである。

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