『源氏物語』の現代語訳:夕顔20

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紫式部が平安時代中期(10世紀末頃)に書いた『源氏物語(げんじものがたり)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『源氏物語』は大勢の女性と逢瀬を重ねた貴族・光源氏を主人公に据え、平安王朝の宮廷内部における恋愛と栄華、文化、無常を情感豊かに書いた長編小説(全54帖)です。『源氏物語』の文章は、光源氏と紫の上に仕えた女房が『問わず語り』したものを、別の若い女房が記述編纂したという建前で書かれており、日本初の本格的な女流文学でもあります。

『源氏物語』の主役である光源氏は、嵯峨源氏の正一位河原左大臣・源融(みなもとのとおる)をモデルにしたとする説が有力であり、紫式部が書いた虚構(フィクション)の長編恋愛小説ですが、その内容には一条天皇の時代の宮廷事情が改変されて反映されている可能性が指摘されます。紫式部は一条天皇の皇后である中宮彰子(藤原道長の長女)に女房兼家庭教師として仕えたこと、『枕草子』の作者である清少納言と不仲であったらしいことが伝えられています。『源氏物語』の“君は、いささか隙ありて思さるる時は、召し出でて使ひなどすれば~”が、このページによって解説されています。

参考文献
『源氏物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),玉上琢弥『源氏物語 全10巻』(角川ソフィア文庫),与謝野晶子『全訳・源氏物語 1~5』(角川文庫)

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[古文・原文]

君は、いささか隙ありて思さるる時は、召し出でて使ひなどすれば、ほどなく交じらひつきたり。服、いと黒くして、容貌などよからねど、かたはに見苦しからぬ若人なり。

「あやしう短かかりける御契りにひかされて、我も世にえあるまじきなめり。年ごろの頼み失ひて、心細く思ふらむ慰めにも、もしながらへば、よろづに育まむとこそ思ひしか、ほどなくまたたち添ひぬべきが、口惜しくもあるべきかな。」と、忍びやかにのたまひて、弱げに泣き給へば、言ふかひなきことをばおきて、「いみじく惜し」と思ひ聞ゆ。

殿の内の人、足を空にて思ひ惑ふ。内裏より、御使、雨の脚よりもけにしげし。思し嘆きおはしますを聞き給ふに、いとかたじけなくて、せめて強く思しなる。大殿も経営し給ひて、大臣、日々に渡り給ひつつ、さまざまのことをせさせ給ふ、しるしにや、二十余日、いと重くわづらひ給ひつれど、ことなる名残のこらず、おこたるさまに見え給ふ。

穢らひ忌み給ひしも、一つに満ちぬる夜なれば、おぼつかながらせ給ふ御心、わりなくて、内裏の御宿直所(おんとのいどころ)に参り給ひなどす。大殿、我が御車にて迎へ奉り給ひて、御物忌なにやと、むつかしう慎ませ奉り給ふ。我にもあらず、あらぬ世によみがへりたるやうに、しばしはおぼえ給ふ。

[現代語訳]

源氏の君は、少し気分が良いように思われる時は、右近を呼び出してお使いなどをさせるので、間もなく二条院に馴染んだ。右近は喪服はとても黒いものを着て、容貌などは良くはないけれど、不器量で見苦しいというほどでもない若い女性である。

「不思議と短かったご宿縁に引かれて、私もこの世に生きていられないように思ってしまう。長年頼りにしていた女主人を亡くして、心細く思っているその慰めに、もし生きながらえていたら、万事の面倒を見たいと思っていたのだが、間もなく自分も後を追って死んでしまいそうなのが、残念なことであるな。」と、源氏の君はひっそりおっしゃって、弱々しくお泣きになるので、右近は言っても仕方ないこと(女主人が亡くなったこと)は横に置いておいて、「非常にもったいないことだ」と思っている。

二条院の内の男女は、足が空にあって地に着かない感じで思い迷っている。内裏から、勅使のお使いが、雨脚よりも本当に頻繁にやってくる。帝が(源氏の病気のことで)思い嘆いていらっしゃるのをお聞きすると、本当にもったいないことだと思い、何とか気を強く持たれておられる。左大臣も源氏の君のお世話なされて、左大臣が、毎日お越しになられては、色々な祈祷をおさせになられる、その効果だろうか、二十余日間、とても重い病状で患っていらっしゃったのだが、特別な病気の名残も残らず、回復されたようなご様子にお見えになられた。

死の穢れ(死穢)によって籠っていらっしゃったが、忌中が明ける夜であり(源氏の君の病気が回復してきた夜でもあり)、心配して下さっているそのお気持ちが、もったいないので、宮中のご宿直所に参内なされた。大殿(左大臣)は、ご自分の車でお迎えされて、御物忌みや何やと、源氏をうるさく謹慎させ申し上げようとした。私ではないような感じがして、別の世界にでも蘇ったように、暫くはお思いになられていた。

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[古文・原文]

九月二十日のほどにぞ、おこたり果て給ひて、いといたく面痩せ給へれど、なかなか、いみじくなまめかしくて、ながめがちに、ねをのみ泣き給ふ。見奉りとがむる人もありて、「御物の怪なめり」など言ふもあり。

右近を召し出でて、のどやかなる夕暮に、物語などし給ひて、「なほ、いとなむあやしき。などてその人と知られじとは、隠い給へりしぞ。まことに海人(あま)の子なりとも、さばかりに思ふを知らで、隔て給ひしかばなむ、つらかりし。」とのたまへば、

「などてか、深く隠し聞え給ふことははべらむ。いつのほどにてかは、何ならぬ御名のりを聞え給はむ。初めより、あやしうおぼえぬ様なりし御ことなれば、『現(うつつ)ともおぼえずなむある』とのたまひて、『御名隠しも、さばかりにこそは』と聞え給ひながら、『なほざりにこそ紛らはし給ふらめ』となむ、憂きことに思したりし」と聞こゆれば、

[現代語訳]

九月二十日ごろに、源氏はすっかり病状が回復なされて、とてもひどくお顔がやつれておられるが、なかなか、非常に艶かしい優美さがあって、悩みがちになり、声を出して泣いておられる。拝見して怪しく思う女房もいて、「物怪(もののけ)がお憑きのようですね」などと言う人もいる。

右近を呼び出して、ゆったりとした夕暮に、お話などをされて、「やはり、とても不思議なことだ。どうして自分が誰かを知られまいとして、お隠しになられていたのか。本当に卑賤な身分であっても、あれほど私が強く思っていることを知らず、身分を隠していらっしゃったので、辛かったのだ。」とおっしゃると、

「どうして、深くお隠し申し上げることなどございましょうか。いつかの機会に、大した家柄でもないお名前を申し上げになられることがあったでしょう。初めから、不思議に思われるご関係だったので、『現実の事とは思えない』とおっしゃっていて、『お名前隠しも、このような関係だから』と分かっておられながら、『いい加減な遊びだから、お名前をお隠しになっておられるのだろう』と辛いことだとお思いになっておられました」と右近が申し上げるので、

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[古文・原文]

「あいなかりける心比べどもかな。我は、しか隔つる心もなかりき。ただ、かやうに人に許されぬ振る舞ひをなむ、まだ慣らはぬことなる。内裏に諌め(いさめ)のたまはするをはじめ、つつむこと多かる身にて、はかなく人にたはぶれごとを言ふも、所狭う、取りなし得るさき身のありさまになむあるを、はかなかりし夕べより、あやしう心にかかりて、あながちに見奉りしも、かかるべき契りこそはものしたまひけめと思ふも、あはれになむ。またうち返し、つらうおぼゆる。

かう長かるまじきにては、など、さしも心に染みて、あはれとおぼえ給ひけむ。なほ詳しく語れ。今は、何ごとを隠すべきぞ。七日七日に仏描かせても、誰が為とか、心のうちにも思はむ」とのたまへば、

「何か、隔て聞えさせはべらむ。自ら、忍び過ぐし給ひしことを、亡き御うしろに、口さがなくやは、と思ひ給ふばかりになむ。

親たちは、はや亡せ給ひにき。三位中将となむ聞えし。いとらうたきものに思ひ聞え給へりしかど、我が身のほどの心もとなさを思すめりしに、命さへ堪へ給はずなりにし後、はかなきもののたよりにて、頭中将なむ、まだ少将にものし給ひし時、見初め奉らせ給ひて、三年ばかりは、志あるさまに通ひ給ひしを、

去年の秋ごろ、かの右の大殿より、いと恐ろしきことの聞え参で来しに、物怖ぢをわりなくし給ひし御心に、せむかたなく思し怖ぢて、西の京に、御乳母住み侍る所になむ、はひ隠れ給へりし。それもいと見苦しきに、住みわび給ひて、山里に移ろひなむと思したりしを、今年よりは塞がりける方に侍りければ、違ふとて、あやしき所にものし給ひしを、見あらはされ奉りぬることと、思し嘆くめりし。

[現代語訳]

「つまらない意地の張り合いだったな。私は、そのように名前を隠しておく気持ちはなかった。ただ、このように人から許されない忍び歩きの振る舞いをすることに。まだ慣れていなかったのだ。帝がお諌めくださることをはじめ、憚ることが多い身分で、人に他愛のない冗談を言っても、窮屈であり、取り沙汰するのが面倒くさい身の上の有様なので、ちょっとした夕方から、不思議に気になって、強引にお通い申し上げたのですが、このような運命だったのだろうと思うと、哀れに思われて。また逆に、つらく思ってしまう。

こう長くはない宿縁だったのなら、どうして、そんなに心に染みて愛しく思ってしまったのだろうか。もっと詳しく語ってみよ。今は、何を隠す必要があるだろうか。七日ごとに仏画を描かせるにしても、誰のためと、その名前を心中に思って祈りたいではないか。」と源氏がおっしゃると、

「どうして、お隠し申し上げましょう。自ら、お隠し続けておられたことを、お亡くなりになった後に、口軽く言ってしまってもいいのだろうかと思うばかりなのです。

ご両親は、早くにお亡くなりになられました。殿は三位中将と申しました。とてもかわいい娘だとお思い申し上げていましたが、ご自分の身分の心もとなさを思っておられましたが、命まで思い通りにならずに亡くなられた後、ちょっとした縁で、頭中将が、まだ少将でいらしゃった時に、見初められてお通い申し上げられるようになって、三年ほどは、お気持ちのある様子でお通いになられましたが、

去年の秋ごろ、あの右大臣の家から、とても恐ろしい事を言ってきたので、むやみに物怖じする気持ちになって、どうしようもなくなって怖がられてしまい、西の京に、御乳母が住んでおります所に、こっそりとお隠れになりました。そこはとてもむさ苦しく、住みづらいところで、山里に移ってしまおうとお思いになられていたのですが、今年からは方塞がり(かたふさがり)の方角でございましたので、方違え(かたたがえ)をしようとして、まだ賤しい家にいらっしゃるところを、見つけられ申し上げてしまったと、お嘆きになられているようでした。

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