24.菅家 このたびは〜 小倉百人一首

優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『24.菅家 このたびは〜』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

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鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

[和歌・読み方・現代語訳]

このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに

菅家(かんけ)

このたびは ぬさもとりあえず たむけやま もみじのにしき かみのまにまに

今回の旅は、急に出立したため、幣(旅の無事を祈って神に捧げる五色の紙きれ)を用意することもできません。手向山の山神様よ、この山の色鮮やかな紅葉を、その御心のままにお受け取りください。

[解説・注釈]

菅家とは菅原道真(すがわらのみちざね,845〜903)のことである。京都の朝廷で従二位・右大臣にまで昇進した菅原道真は、894年に遣唐使廃止の建言をしたことで知られるが、藤原時平の讒言・謀略により九州の太宰権帥へと左遷された。学問と詩文に優れた当時の一流の知識人であったが、死後に天災・疫病が繰り返し起こったため、道真の怨霊を恐れた公家たちによって、正一位が追贈され『学問の神様』として太宰府天満宮で奉られることになった。道真は『類聚国史』『三代実録』などを編集する仕事の成果も残している。

この歌は、菅原道真が宇多上皇の宮滝(奈良県)御幸に随伴した際に詠んだスケールの大きな歌である。手向山というのは、山城国(京都府)から大和国(奈良県)の境目にあった山の一つを名付けたものであるが、『手向山(たむけやま)』には地名(山名)の意味だけではなく、山の神様に手向けるという意味も込められている。『たび』という言葉にも『旅』と『度』の二つの意味が掛けられているが、この歌の妙味は神にお祈りするための『五色の幣(紙きれ)』を『色鮮やかな山の紅葉』と重ね合わせている部分にある。

この宇多上皇の大和国への行幸は、天皇(王者)としての実質的権威を誇示するための『狩猟の旅』であったが、平安時代の家臣を引き連れていく狩猟には『山の神様』を王者に服属させるという宗教儀礼的な意味合いもあった。

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