優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤原俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。
小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『94.参議雅経の歌:み吉野の山の秋風さ夜更けて~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。
参考文献
鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)
[和歌・読み方・現代語訳]
み吉野の 山の秋風 さ夜更けて ふるさと寒く 衣うつなり
参議雅経(さんぎまさつね)
みよしのの やまのあきかぜ さよふけて ふるさとさむく ころもうつなり
吉野山には秋風が吹いて夜が更けていく、古里の吉野は寒くて衣を打つ砧(きぬた)の音が聞こえてくる。
[解説・注釈]
参議雅経(さんぎまさつね,1170-1221)は、飛鳥井雅経(藤原雅経)のことであり、藤原氏の飛鳥井家の始祖である。参議雅経は後鳥羽院から厚遇された人物で、和歌・蹴鞠が得意だったといわれ、『新古今和歌集』の撰者にもなっている。参議雅経は鎌倉幕府の重臣・大江広元(おおえのひろもと)の娘と結婚して、鎌倉と京都(調停)との政治的な仲介役を務めたことでも知られる。
古都・吉野の晩秋の物悲しい景色を詠んだ歌であり、秋風が吹き抜けていく山里の夜に、静かに女が砧を打っている音が響いている。『砧(きぬた)』には元々、古代中国で遠征に出かけた夫の帰りを一人寂しく待つ妻が打つものという前提があり、日本の和歌の世界においても『男を待つ女』の象徴として用いられることが少なくない。
吉野は当時から奈良時代に栄えた鄙びた古都のイメージが強く持たれており、吉野といえば往時の繁栄を偲ぶような懐かしさと悲しみが感じられるといった風情がある。
この歌には、冬の吉野山の美しく寂しい景色を詠んだ以下のような『古今和歌集』の本歌があった。
み吉野の 山の白雪 つもるらし ふるさと寒く なりまさるなり
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