72.祐子内親王家紀伊の歌:音に聞く高師の浜のあだ波は~

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優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『72.祐子内親王家紀伊の歌:音に聞く高師の浜のあだ波は~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

参考文献
鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

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[和歌・読み方・現代語訳]

音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ

祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)

おとにきく たかしのはまの あだなみは かけじやそでの ぬれもこそすれ

噂に聞いている高師の浜に、いたずらに立っている波は、袖が濡れては困るのでかけるつもりはありませんよ。(涙を流して袖を濡らすようなことになってはつらいので、浮気者として噂になっているあなたを信用して相手にするつもりはありませんよ。)

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[解説・注釈]

祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい,生没年不詳)は、平安後期の歌人で紀伊と呼ばれる。紀伊は平経方(たいらのつねかた)の娘、紀伊守藤原重経(ふじわらのしげつね)の妻とされる女性である。後朱雀天皇の皇女祐子内親王に仕えた女房であり、この歌が詠まれたのは70歳の高齢の時だったとされる。

『高師の浜』というのは、和泉国の歌枕として使われていた言葉で、現在の大阪府堺市・高石市にかけての海岸のことだとされる。この歌では、『高師の浜』と『噂に名高い(評判に高い)』という意味が掛け合わされている。『あだ波』は、『無意味にいたずらに立つ波』といった意味であり、『浮気者の男』といった意味も掛けられている。

孝和4年(1102年)閏5月に開かれた『堀河院艶書合(ほりかわいんけそうぶみあわせ)』で歌われた歌だが、『艶書合(けそうぶみあわせ)』というのは貴族・女房らが和歌を通した一次的な擬似恋愛の感覚を楽しむための歌会であった。この歌会で、藤原俊忠(ふじわらのとしただ,83番作者の藤原俊成の父)から送られた恋の歌に、紀伊が返した返歌がこの歌である。70歳のベテランの女房である紀伊に送った29歳の女好きの色男の藤原俊忠の歌は以下のようなものだった。

人知れぬ 思ひありその 浦風に 波のよるこそ 言はまほしけれ
(人知れずあなたに思いをかけているので、荒磯の浦を吹き抜ける風に波が寄るように、夜になったらあなたに言い寄りたいと思っています。)

紀伊から見ればまだまだ若輩者に過ぎない色男の俊忠に対して、『いたずらで浮気な波(男)に誘われて、ただ袖を濡らしてしまうだけのような悲しくてつらい恋などしたくないからその言葉を信じず相手にしない』という見事な返歌を返したという熟練の機知が冴え渡る紀伊のエピソードが背景にある。

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