54.儀同三司母 忘れじの~ 小倉百人一首

優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『54.儀同三司母 忘れじの~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

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鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

[和歌・読み方・現代語訳]

忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな

儀同三司母(ぎどうさんしのはは)

わすれじの ゆくすえまでは かたければ きょうをかぎりの いのちともがな

決して忘れないとは言って下さっても、未来のことまでは分からないものなので、あなたがそのようにおっしゃって下さる今日が、最後の日(裏切りを知らないままで命が尽きる日)であれば良いのに。

[解説・注釈]

儀同三司母(ぎどうさんしのはは,生年不詳-996)は、高階成忠の娘・高階貴子(たかしなのきし)のことであり、『儀同三司』と呼ばれたのは貴子の子の藤原伊周(ふじわらのこれちか)のことである。儀同三司母(高階貴子)は、中関白・藤原道隆の妻であり、藤原伊周(儀同三司)・藤原隆家・一条天皇に仕えた中宮定子を生んでいる。藤原道隆の全盛期に当たる平安中期の歌人である。

出典となっている『新古今和歌集』の詞書には、『中関白通ひそめ侍りけるころ』とあり、夫の藤原道隆が高階貴子の元へ通い始めた頃に歌われた歌であり、『道隆の忘れじ(自分の気持ちや愛情は決して変わらない)』という言葉に対する貴子の率直な喜びと不安の気持ちが詠まれている。実際の藤原道隆はなかなかの愛妻家でそれほど浮気などの問題は起こさなかったようだが、『男性の心変わり・気持ちが離れること』を恐れる高階貴子(後ろ盾の弱い没落貴族の娘)は、『忘れじとおっしゃって下さるこの最高の気持ちがあるうちに命が終わってしまえば良いのに』と詠んだのである。

藤原道隆が死去すると儀同三司母の運命も急速に暗転していくが、それは次世代の朝廷権力を掌握しようとする藤原道長が台頭して影響力を拡大してきたからだった。藤原道長との権力争いに敗れた息子の藤原伊周・隆家は失脚してしまい、一条帝に仕えていた中宮定子も髪を落飾して出家することとなる。儀同三司母の晩年の政治的な不遇を思うと、『最高の気持ちに覆われた人生の絶頂期の今が、命が終わる最後の日になればいいのに』というこの歌の味わいがより一層増してくるように感じられる。

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