41.壬生忠見 恋すてふ〜 小倉百人一首

優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『41.壬生忠見 恋すてふ〜』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

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鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

[和歌・読み方・現代語訳]

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

壬生忠見(みぶのただみ)

こいすちょう わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもいそめしか

恋をしているという噂がもう立ってしまった。人知れず、あの人のことを思い始めた(初めた)ばかりなのに。

[解説・注釈]

壬生忠見(みぶのただみ,生没年不詳)は、平安中期の歌人で三十六歌仙の一人であり、地方官吏として派遣されることの多い慌ただしい苦難の人生を送ったとされる。百人一首の30番作者・壬生忠岑(みぶのただみね)の子である。

天徳4年(960年)に、村上天皇が主催する内裏歌合で、40番の平兼盛の歌と41番の壬生忠見の歌が勝負したのだが、この時には40番の歌のほうが勝っている。この歌は、『自分の始まったばかりの恋』が知らぬ間に人々の噂になっていることへの戸惑いや羞恥(照れ)を率直に表現した歌であり、平兼盛の内面を描写した歌と比べるとシンプルな構成になっている。

当時の貴族にとっては『内裏歌合』は、自分の歌人としての力量と感受性が公に問われることになる一大イベントであり、『沙石集(しゃせきしゅう)』によると、この勝負に敗れてしまった壬生忠見はそのショックでご飯が食べられない摂食障害(神経性拒食症)になってしまったと伝えられている。

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