優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。
小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『26.貞信公 小倉山〜』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。
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鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)
[和歌・読み方・現代語訳]
小倉山 峰の紅葉ば 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
貞信公(ていしんこう)
おぐらやま みねのもみじば こころあらば いまひとたびの みゆきまたなん
小倉山に繁る峰の紅葉よ、もしお前に心があるならば、もう一度散らないその姿のままで、醍醐天皇の行幸を待っていておくれ。
[解説・注釈]
貞信公とは藤原忠平(ふじわらのただひら,880〜949)のことであり、忠平は長期間にわたって『摂政・関白・太政大臣』という政界の中枢を占めて、藤原摂関家を隆盛させる基礎を築いた人物である。藤原忠平は藤原基経の子であり、菅原道真を讒言して太宰府に左遷させた藤原時平の弟に当たる。宮中儀礼をまとめた『延喜格式』を完成したことでも知られる。
延長四年(926年)10月10日、藤原忠平は宇多上皇(亭子院)の大井川遊覧に付き添って、見事に色とりどりに色づいた紅葉を観賞したのだが、宇多上皇はこの紅葉を息子の醍醐天皇にも見せてあげたいとおっしゃられたという。その上皇の願いを聞いた忠平が、『醍醐天皇の行幸』のために紅葉に向かって呼びかけるようにして詠んだ歌がこの歌なのである。
自然現象である季節の移ろいと紅葉の落葉は止めることなどできないのだが、忠平は『上皇・天皇への忠誠心』を分かりやすく示すためにこの紅葉を擬人化したような歌を詠んだのかもしれない。政治権力と和歌との相関をダイレクトに示す『君臣和合』の型の歌であり、君主と家臣が一体となって自然界をも掌握せんとする意気込みのようなものを感じさせる。『小倉山』は『小倉百人一首』が編纂された藤原定家の山荘があった山であり、現在の京都市右京区嵯峨に位置している山である。