28.源宗于朝臣 山里は〜 小倉百人一首

優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『28.源宗于朝臣 山里は〜』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

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鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

[和歌・読み方・現代語訳]

山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば

源宗于朝臣(みなもとのむねゆきのあそん)

やまざとは ふゆぞさびしさ まさりける ひとめもくさも かれぬとおもえば

山里は冬の季節になると寂しさが一層強く感じられるものだな、人の訪れも無くなって草も枯れていってしまうと思えば。

[解説・注釈]

源宗于(みなもとのむねゆき,生年不詳〜939)は三十六歌仙の一人に数えられる人物。光孝天皇の皇子・是忠親王の子であり、皇族として生まれたのだが、源氏姓を与えられて『臣籍降下』され不遇の人生を送った。皇族に生まれた源宗于朝臣だったが、その位階・官職は『正四位下・右京大夫』という低い地位に留まった。『大和物語』には、源宗于が宇多天皇に対して自らの不遇・苦悩を訴えかけるような歌も残されている。

道教・老荘の隠遁思想の影響が強まってくる平安時代中期になると、都会から離れた静かな『山里』は、俗世の欲望やしがらみを離れて暮らすことができるある種の理想郷と見なされることも多くなった。山里は一般的に人や文物が少なくて寂しい景観であるが、その山里が冬の季節になると更に寂しくなり、誰も訪れなくなって物静かになっていく。

この歌の『かれ』の掛詞(かけことば)には、人が訪れなくなってくる『離れ(かれ)』と草木が枯れ果てていく『枯れ』という二つの意味が掛けられている。冬の山里の寂しさは、人の往来の少なさと草木の枯死が原因なのであるが、『人間と植物の生命力の低下』による死のイメージがそこには重ね合わせられているのだ。源宗于朝臣の個人的な不遇感や苦悩感がそこはかとなく滲んでいるような歌でもある。

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