優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。
小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『44.中納言朝忠 逢ふことの〜』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。
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鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)
[和歌・読み方・現代語訳]
逢ふことの たえてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
中納言朝忠(ちゅうなごんあさただ)
あうことの たえてしなくは なかなかに ひとをもみをも うらみざらまし
あの人と逢うことが全く無いのであれば、かえってあの人の冷たさや自分の不遇を恨んでしまうことも無かっただろうに。
[解説・注釈]
中納言朝忠(ちゅうなごんあさただ,910〜966)は、平安中期の歌人で三十六歌仙の一人である。本名は藤原朝忠で、25番作者の藤原定方の子に当たる人物である。笙の名手で大食による肥満体型であったと伝えられているが、多くの女性と恋愛関係を結んだことでも知られる。38番作者の右近とも恋仲だった時期があった。
この歌は村上天皇が主催する『天徳の内裏歌合』の題詠で詠まれたものであり、藤原朝忠の実際の恋愛と結びついているわけではないが、『恋愛で苦しむくらいだったら、初めからあなた(恋人)なんかと出会わなければ良かった』という現代にも通用する普遍的な恋愛の苦悩を詠んだ歌である。平安時代の当時でも、色恋の道に思い悩むことが多い貴族(公家)たちの共感を呼ぶ歌だったことは想像に難くない。
恋愛は上手くいくまでは『相手の気持ち・愛情』を手に入れられないという欲求不満に苦しむものだが、相手と男女の仲になった後にはまた『自分を本当に理解してくれない(完全に理解して独占し合えるわけでもない)・会ってもまた別れなくてはいけない』という新たな欲求不満に襲われやすいものでもある。
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