優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。
小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『56.和泉式部 あらざらむ~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。
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鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)
[和歌・読み方・現代語訳]
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
和泉式部(いずみしきぶ)
あらざらん このよのほかの おもいでに いまひとたびの あうこともがな
私は間もなく死んでしまうでしょう。この世の最後の思い出として、せめて今一度だけ、あなたにお逢いしたいのです。
[解説・注釈]
和泉式部(いずみしきぶ,生没年不詳)は、大江雅致(おおえまさむね)の娘で、和泉守・橘道貞(たちばなのみちさだ)の妻であり、60番作者である小式部内侍(こしきぶのないし)の母でもある。和泉式部は敦道親王(あつみちしんのう)との恋愛関係の心情を書き綴った『和泉式部日記』の作者として有名であるが、冷泉天皇の皇子である為尊親王・敦道親王との激しい恋愛は、夫の橘道貞を裏切る不倫の恋でもあった。
和泉式部は皇子たちとの不倫が露見して夫の橘道貞から離縁を申し付けられ、一族の恥として父からも勘当されてしまう。為尊親王・敦道親王と死別した後は、藤原道長の娘・中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)に仕えて、藤原保昌(ふじわらのやすまさ)と再婚したが晩年は不遇の中で生涯を終えたと伝えられる。和泉式部は『リアリティのある身体感覚』や『胸をときめかせる官能表現』を和歌の中に織り込んでいく恋歌の名手として知られているが、それらの和歌は和泉式部自身が経験した刺激的で官能的な激しくも苦しい恋の経験に依拠したものでもあった。
『後拾遺和歌集』には以下のような和泉式部の恋歌が収載されている。
黒髪の 乱れも知らず うち臥せば まづかきやりし 人ぞ恋しき(黒髪が乱れているのにも構わず横になっていると、黒髪をかきあげ撫でてくれた恋人のことが恋しくなる)
世の中に 恋てふ色は なけれども 深く身に沁む 物にぞありける(世の中に恋という色はないけれど、恋というのは布地を染める色のように、深く身に沁み込んでいって忘れられないものだよ)
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