61.伊勢大輔の歌:いにしへの奈良の都の八重桜~

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優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『61.伊勢大輔の歌:いにしへの奈良の都の八重桜~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

参考文献
鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

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[和歌・読み方・現代語訳]

いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな

伊勢大輔(いせのたいふ)

いにしえの ならのみやこの やえざくら きょうここのえに においぬるかな

古都である奈良の都に咲いていた八重桜が、今日は新都である京都の九重の宮中で、美しく咲いていることよ。

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[解説・注釈]

伊勢大輔(いせのたいふ,生没年不詳)は、中宮彰子に仕えた平安中期の歌人である。伊勢の祭主・大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の娘、能宣の孫に当たり、高階成順(たかしなのなりのぶ)の妻となった人物とされる。

一条天皇の御代に、旧都・奈良から遅咲きの八重桜が新都・京都に献上されたのだが、その際に藤原道長がその桜の花を題材にして歌を詠めという命令が出されたのだという。歌を詠んだのが当時新参の女房であった伊勢大輔(娘)であり、紫式部から桜を受け取る役を譲られて歌を読むことになったのだとされる。

出典『詞花和歌集』の詞書(ことばがき)には、『一条院の御時、奈良の八重桜を人のたてまつりて侍りけるを、そのをり御前に侍りければ、その花をたまひて歌よめとおほせられければよめる』と書かれている。八重桜は奈良の特産物で、献上品として京都にまで送られてくることが多かったが、この歌は古都の八重桜が新都の奈良で美しく咲き誇っている様子を詠むことで、現在の都・朝廷の繁栄を上手く表現している。

大中臣家は、伊勢神宮の祭主を先祖代々務めてきた名門の家柄であり、伊勢大輔はその家の娘である。伊勢大輔はこの見事な出来栄えの歌を詠んだことによって、華やかで風雅な中宮彰子の女房のサロンにおいて、その詩歌の才覚と存在感を強く示したのである。

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