60.小式部内侍 大江山~ 小倉百人一首

優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『60.小式部内侍 大江山~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

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鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

[和歌・読み方・現代語訳]

大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立

小式部内侍(こしきぶのないし)

おおえやま いくののみちの とおければ まだふみもみず あまのはしだて

(母が住んでいる丹後国は)大江山を山越えして生野を通っていく道が遠いので、まだあの天の橋立を実際に踏んでみたことがないですし、母からの手紙もこちらへ届いていないのです。

[解説・注釈]

小式部内侍(こしきぶのないし,生年不詳-1025年頃)は、平安中期の歌人で、橘道貞(たちばなのみちさだ)と56番作者の和泉式部の娘である。一条天皇の中宮彰子に仕えて、若い時期から母親譲りの歌・文学の才能を開花させていたが、母・和泉式部よりも先に20代で早世してしまう悲劇に見舞われた。

この歌は、既に和歌の名人として有名だった和泉式部の娘が、64番作者の藤原定頼(ふじわらのさだより)から『どうせ母親から歌を代作して貰っているんだろう』と皮肉を言われた時に、即興で返した歌だと伝えられている。母・和泉式部が藤原保昌(ふじわらのやすまさ)と再婚して丹後国に下向していた時に、平安京の都で歌合の会が開かれた。その時、小式部内侍の側に代作をしてくれる母親がいないから、今回は良い歌を詠むことができないだろうという嫌味を言ってきたが、小式部内侍は当意即妙の反応でいくつもの掛詞(かけことば)を駆使して、母親への思いを込めたこの技巧性の高い和歌を見事に返したのである。

『大江山』は山城国と丹波国の境界にある山で、『いく野』は丹波国天田郡(現在の京都府福知山市)の『生野』と動詞の『行く』を掛け合わせている。『天の橋立』は丹後国与謝郡(現在の京都府宮津市)にある日本三景のひとつに数えられる名所だが、小式部内侍は実際にその名所を訪れた事がなかったようである。『ふみ』にも、『手紙の文(ふみ)』と『土地を踏み(ふみ)』の二つの意味が掛け合わせられている。

母親の和泉式部は、自分よりも早く死んだ娘を悼んで『和泉式部集 473』で以下の歌を詠んでいる。

などて君 むなしき空に 消えにけん あは雪だにも ふればふる世に

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