62.清少納言の歌:夜をこめて鳥のそら音ははかるとも~

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優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『62.清少納言の歌:夜をこめて鳥のそら音ははかるとも~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

参考文献
鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

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[和歌・読み方・現代語訳]

夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ

清少納言(せいしょうなごん)

よをこめて とりのそらねは はかるとも よにおうさか(あふさか)の せきはゆるさじ

夜が明けていないのに、鶏の鳴き真似をして騙そうとしても(古代中国の君子・孟嘗君が無能と見られていた食客たちの鶏の鳴き真似等の特技を活用した故事にちなんでいる)、逢坂の関の役人は騙されないだろうし、私も騙されて戸を開けたりはしませんよ。

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[解説・注釈]

清少納言(せいしょうなごん,生没年不詳)は、平安中期の作家・歌人で、随筆集『枕草子』の作者として知られている。和漢の学殖に秀でており、繊細な感性と世慣れた経験によって、平安時代を代表する女流文学者としての名声を確立した人物で、『枕草子』には当時の宮中の女の世界を生きた女房の生々しい感情・感性が生き生きと表現されている。清少納言は清原元輔(きよはらのもとすけ)の娘、清原深養父(ふかやぶ)の曾孫に当たり、中宮定子に長くお仕えした才媛の女房である。

宮中にある職の御曹司(しきのおんぞうし)で詠まれた歌で、この時代には一条天皇に仕えた中宮定子は既に出家していて、定子の実家である藤原氏の中関白家も没落してしまっていた。

清少納言は藤原行成(ふじわらのこうぜい)と恋愛関係にあったが、ある日、会話の途中で宮中で用事ができたといって行成が帰ってしまう。翌日に藤原行成が途中で帰ってしまった言い訳として『昨夜は夜明けを告げる鳥の声が聞こえたので帰ってしまいました』と言ったのだが、清少納言は『その鳥は函谷関(かんこくかん)の偽物の鳥だったのでしょう』と言い返してきた。

函谷関というのは古代中国の守りの堅い関所で、夜明けの鳥が鳴くまでは決して関所を開けることがなかったのだが、名君の孟嘗君が奇策として『鶏の鳴き真似の上手い食客(役立たずで無能とされていた部下)』を活用して、鶏の鳴き真似をさせて函谷関を通過したという『史記』の故事にちなんでいる。

藤原行成は『函谷関ではなく逢坂の関です(貴女が恋しくて逢いたいのです)』と返答してきたが、逢坂の関というのは山城国(京都府)と近江国(滋賀県)の境界にあった関所で、『逢坂の関を越える』というのは『男女が逢瀬を遂げる(深い男女関係を持つ)』というメタファーであった。藤原行成は以下のような返歌を返している。

逢坂は 人越えやすき 関なれば 鳥鳴かぬにも あけて待つとか

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