63.左京大夫道雅の歌:今はただ思ひ絶えなむとばかりを~

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優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『63.左京大夫道雅の歌:今はただ思ひ絶えなむとばかりを~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

参考文献
鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

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[和歌・読み方・現代語訳]

今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな

左京大夫道雅(さきょうのだいぶみちまさ)

いまはただ おもいたえなん とばかりを ひとづてならで いうよしもがな

今はただ、あなたへの思いを断ち切りましょうというその言葉だけを、誰かを介した人づてで伝えるのではなくて、直接に自分であの人に言う方法があればいいのになあ。

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[解説・注釈]

左京大夫道雅・藤原道雅(さきょうのだいぶみちまさ・ふじわらのみちまさ,993-1054)は、平安中期の作家・歌人で中古三十六歌仙の一人に数えられるが、中関白家が没落したこともあって道雅は素行不良で破天荒な貴族(荒三位・あらさんみ)という印象の強い人物である。藤原伊周(ふじわらのこれちか)の子で、関白藤原道隆と儀同三司母の孫に当たる。

自暴自棄な生活を続けていた藤原道雅だが、68番作者の三条院娘・当子内親王(とうしないしんのう)に恋心を寄せるようになってしまう。道雅は当子内親王との密通事件を起こしてしまうことになるが、これは不良じみた若者の道雅が身分違いのお嬢様(内親王)である当子に惚れてしまう『道ならぬ恋』でもあった。藤原道雅は、父の藤原伊周の失脚や日常の粗暴・派手な振る舞いの影響もあって、その家柄に比べて職位は低いまま終わった人物としても知られる。

出典『後拾遺和歌集』には、『伊勢の斎宮(いつきのみや)わたりよりのぼりて侍りける人に、忍びて通ひけることを、おほやけもきこしめして、守り女などつけさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければ、よみ侍りける』と書かれているが、伊勢斎宮が当子内親王のことである。藤原道雅が娘の当子内親王と密会していることを知った父・三条院(三条法皇)は激怒して、当子を別邸に移して見張り番をつけ、道雅が当子に会いに来れないようにした。

この歌は、当子内親王と二度と会えない運命に追い込まれた藤原道雅が、会いたいけれど会うことができない苦悩と諦めを詠んだ歌であり、『もうあなたへの思いを断ち切りますから』という気持ちを何とかして自分自身の声で届けたいと願う男の未練と悲しみが伝わってくる。その後、当子内親王は出家したがわずか23歳という年齢で病死してしまう。道雅も妻・一男一女とは離別して淋しい人生を送ることになったというが、藤原道雅と当子内親王との恋愛は平安時代においても珍しい身分違いの悲恋であった。

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