優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤原俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。
小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『83.皇太后宮大夫俊成の歌:世の中よ道こそなけれ思ひ入る~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。
参考文献
鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)
[和歌・読み方・現代語訳]
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶとしなり)
よのなかよ みちこそなけれ おもいいる やまのおくにも しかぞなくなる
この世の中には逃れる道などないのだ。思い詰めて入ってきたこの山奥でも、悲しげに鹿が鳴いているのだから。
[解説・注釈]
皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶとしなり,1114-1204)は、歌壇の大家として知られる藤原俊成(ふじわらのとしなり)のことである。藤原俊成は『小倉百人一首』の撰者である藤原定家の父であり、定家は『述懐百首(千載和歌集の雑中)』から父のこの歌を選んでいる。
藤原俊成は藤原道長の五男・長家流俊忠(としただ)の子であり、十歳で父と死別してからは、役人としては出世できずに不遇の時代を過ごした。しかし、崇徳天皇の御代で歌人として高く評価され、63歳で出家して釈阿(しゃくあ)と名乗ってからは、第七代勅撰集『千載和歌集(せんざいわかしゅう)』を単独で編纂している。摂関家・九条家の歌道の指南役でもあり、家集『長秋詠藻(ちょうしゅうえいそう)』を編纂したり、歌論書『古来風体抄(こらいふうていしょう)』を書いたりしている。
この歌は藤原俊成が27歳の頃の歌であり、世俗の苦しみや悲しみを逃れて山奥に入ってきても、この世の中からは逃げ切ることはできないという失意・落胆の気持ちを歌っている。この深山にあってもなお鹿が物悲しい声で鳴いているように、この世の中はどこに逃げても、苦悩や悲哀と無縁でいることはできない、出家して深山に隠遁したとしても完全な自由や喜びに満ちた理想郷(桃源郷)などはないということである。世俗の煩わしい苦悩から抜け出した『出家(隠遁)』の先にある修行と瞑想の日々で、人はどのような救済を見いだせるというのだろうか。
藤原俊成は和歌の世界において『新古今和歌集』へと続いていく『幽玄(ゆうげん)』と『艶(えん)』という美的理念を確立した人物である。
『幽玄』とは知覚より想像(感受性)、明瞭より曖昧、単純より複雑、明るさより薄暗さ(ほのかさ)を表現しようとする美意識であり、ほのかで微かな美しさ、複雑で感受性を揺さぶる美しさのことを指している。『艶』もまた、人間の心を誘惑的・官能的に捉えて感受性を心地よく揺さぶる曖昧模糊とした美しさのことを意味している。
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